足利義満の容赦ない「皇位簒奪計画」…義満と天皇の権威の壮絶なるせめぎ合いとその結末【前編】

足利義満の登場
源頼朝が鎌倉幕府を開き、武家政権が成立すると、政治や軍事の実権は幕府が握りました。結果、朝廷や天皇の権威は弱体化し、その傾向は室町時代に入ると著しくなります。
その動きの中心となったのが足利義満です。

彼は室町幕府第3代将軍で、初代将軍・尊氏の孫で、京都・鹿苑寺の金閣を造営した将軍としても知られていますね。
金閣のような建物を造ったのだから、彼は権力闘争とは縁のない文化人だというイメージを抱いている人もいるかも知れません。
しかし全然そんなことはなく、彼の正体は権謀術数に長けた人物で、あろうことか皇位を奪おうとしたといわれています。
今回は彼のそんな皇位簒奪の野望と、天皇の権威とのせめぎ合いについて前編・後編に分けて見ていきましょう。
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彼には皇族の血が流れていて、天皇家へのコンプレックスがありませんでした。
義満の母・紀良子は順徳天皇の子孫で、当時の天皇・後円融天皇とは従兄弟です。しかも同年齢なので、遠慮がありません。

こうした背景もあって義満は天皇と何度も対立し、ここで天皇は抵抗したものの、譲歩せざるを得ませんでした。
こうした背景から、彼は皇位簒奪を本気で狙った史上初の人物とされています。
一応、蘇我入鹿も皇位簒奪を狙った人物として語り継がれていますが、それについての信憑性は疑わしいとされています。よって、足利義満は日本史上初めて皇位簒奪を狙ったと言えるのです。
天皇の無力化の具体策義満による天皇の無力化は、1385年(至徳2年/元中2年)にはすでに始まっています。
京都は天皇が支配する町で、武家が介入できない聖域でした。事実、武家政権成立後も、朝廷の警察機関である検非違使庁は南北朝末期まで存続しています。

ところがこの年、将軍である義満は幕府の侍所から山城守護を分離し、京都の警察機関として自立させました。これにより、検非違使庁の役目は失われてしまったのです。
さらに、改元・祭祀・官位に関する権限も義満が奪いました。これが致命傷となり、天皇の権威は大きく低下することになります。
ここまで足利義満による天皇の無力化の初期の動きについて説明しました。皇位簒奪計画の具体的な展開とその結末については【後編】で説明します。
参考資料:日本歴史楽会『あなたの歴史知識はもう古い! 変わる日本史』宝島社 (2014/8/20)
画像:photoAC,Wikipedia
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