かつて日本に存在した「蝦夷共和国」実は共和国ではなかった!?総裁・榎本武揚の真意はどこにあったのか

徹底抗戦を主張
明治時代の初め、日本には明治政府のほかに蝦夷(北海道)共和国の政府がありました。
蝦夷共和国政府の総裁は旧徳川幕府の幕臣で、海軍副総裁を務めた榎本武揚でした。この共和国が独立するまでの経緯をふり返ってみましょう。

1867年、大政奉還によって江戸幕府が消滅し、翌年3月には江戸城の無血開城が決まります。
ところが、1868年の8月1日、榎本は徹底抗戦を主張し、旧幕臣など2000人余りを軍艦8隻に乗せて江戸を脱出しました。
その途中、仙台で陸軍と合流したあと北へと進み、鷲ノ木(現・渡島管内森町)から蝦夷地に上陸します。
蝦夷地には、明治新政府が任命した箱館府知事・清水谷公考がいました。しかし榎本はこれをすぐに追い出すと、幕末に建造された西洋式要塞「五稜郭」を占領します。
さらに松前藩兵も撃破し、蝦夷地から官軍勢力を一掃しました。
「事実上の政権」
これを受けて、イギリスやフランスなどの列強各国は、同共和国を「事実上の政権(デ・ファクト)」と認めます。12月5日には選挙によって榎本が総裁に選ばれ、蝦夷共和国が樹立されたのです。
当時、横浜から欧米に向けて発行されていた英字新聞「ジャパンタイムズ・オーバーランド・メイル」は、1869年2月13日(太陰暦で明治2年1月2日)付けの記事で「徳川脱藩家臣団が共和国樹立を宣言」と書いています。
しかし、榎本によって樹立された蝦夷共和国は、1869年5月、明治新政府軍の総攻撃によってあえなく降伏します。蝦夷共和国の寿命は約半年に過ぎませんでした。
独立国家を目指してはいなかったさて、ここまでの経緯は多くの人が御存じの通りですが、実は榎本が樹立した蝦夷共和国について、近年、これは真の共和国ではないという指摘があります。
北海道大学名誉教授の田中彰は自著の『明治維新』(講談社学術文庫)の中で、この共和国は「戊辰戦争の最後の拠点をここに求めた、旧幕臣を中心とした『サムライだけ』の『共和国』にほかならなかった」と述べています。
確かに、榎本は江戸を脱出する前に「徳川家臣大挙告文」という趣意書を起草しています。その中で「徳川家臣を救済するため、かつて蝦夷地の開墾を申請したが許可を得られないので、あえて一戦を辞さない覚悟で江戸湾を退去する」という内容のことを書いています。
つまり、榎本の構想では、蝦夷地はあくまでも旧幕臣らが生活していくための地であり、それを新政府に認めてもらおうというのが真意だったのです。

榎本はまた、蝦夷地で政権を樹立したあとも新政府に嘆願書を送り、「自分たちの政権のために徳川家の血筋の者を選んでほしい」と嘆願しています。
ちなみに田中は榎本の政権についてこう述べています。「天皇政府を肯定し、『一には皇国の為め、二には徳川の為め』、旧幕臣をやしない、北門の警固にあたろうというものであった。とすれば、これは旧幕臣の夢を託した『共和国』であって、民衆を基盤とした共和国とはおよそ縁遠い存在だった」と。
結局、榎本が目指したのは独立国家ではなく、新政府の下で旧幕臣によって運営される、ある種の自治区だったのです。
参考資料:日本歴史楽会『あなたの歴史知識はもう古い! 変わる日本史』宝島社 (2014/8/20)
画像:photoAC,Wikipedia
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