驚きの捜査手法!鬼平・長谷川平蔵が江戸時代屈指の高い犯罪検挙率を誇ったのは何故か?【前編】

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驚きの捜査手法!鬼平・長谷川平蔵が江戸時代屈指の高い犯罪検挙率を誇ったのは何故か?【前編】

多忙な平蔵

本稿では、長谷川平蔵の犯罪捜査と高い検挙率の秘密について、前編・後編に分けて説明します。

ご存じ、『鬼平犯科帳』で有名な「鬼平」こと長谷川平蔵は、火付盗賊改人足寄場という2つの加役を担っていました。

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戒行寺の長谷川平蔵供養碑

激務である火盗改の仕事との両立が、心身ともに厳しいものがあったことは想像に難くありません。

例えば「御仕置例類集」に記された平蔵が残した判決例は、寛政元年(1789年)から寛政3年(1791年)までの3年間の合計が30件なのに対して、平蔵が人足寄場の運営から離れた寛政4年(1792年)には25件、寛政5年(1793年)に4件、亡くなる前年となる寛政6年(1794年)には76件もあります。

こうした数字から、平蔵が多忙の中でも多くの判例を残したことが分かります。

放蕩生活が育んだ捜査手腕

平蔵は江戸時代屈指の犯罪検挙率を誇ったことでも有名ですが、彼が犯罪捜査において卓越した手腕を発揮したのは、小普請組時代の放蕩生活での経験のおかげもあったと思われます。

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『鬼平犯科帳』の世界観と江戸の街並みを再現した羽生パーキングエリア

例えば『鬼平犯科帳』でも相模の彦十やおまさといった「本所の銭」時代の知り合いが登場します。

このほか、小房の粂八や大滝の五郎蔵などの元盗賊が平蔵の密偵として活躍しますが、このような私的な手先は当時本当に存在しており、一般には目明かし岡っ引、火盗改では差口奉公と呼ばれました。

放蕩時代の下層階級とのつながりが、平蔵の捜査に大きな力を与えたのです。

岡っ引を積極活用

平蔵の後任となった森山孝盛が記した『蜑の焼藻』には、平蔵の捜査手法について「元来、御禁制の目明かし岡っ引というものをもっぱら使うので、大盗・強盗などはたちまち召し捕らえた」とあります。

森山は平蔵の手法に批判的な人物で、岡っ引などを使わないやり方を採用していました。よって同書では平蔵の操作手法を批判的に書き残していますが、犯罪検挙数は平蔵の方が多かったようです。このことは、岡っ引の有用性を示しているといえるでしょう。

ちなみに岡っ引の「岡」は脇の立場を意味し、同心ではない脇の人間が拘引したことから「岡っ引」と呼ばれました。

ただし「岡っ引」という呼び方は蔑称で、公の場所で名乗る呼び方ではありませんでした。彼らは武士ではないため帯刀は許されず、十手と呼ばれる警棒のような武器を持っていました。

こうした、いわゆる岡っ引きを上手く活用した点が、平蔵が高い犯罪検挙率を打ち出した理由の一つだったのは間違いありません。彼はタブーにこだわらず、犯罪捜査のためには手段を選ばなかったのでしょう。

【後編】では、彼の独自の情報網や火事への対処について説明します。

参考資料:縄田一男・菅野俊輔監修『鬼平と梅安が見た江戸の闇社会』2023年、宝島社新書画像:photoAC,Wikipedia

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