足利義満の容赦ない「皇位簒奪計画」…義満と天皇の権威の壮絶なるせめぎ合いとその結末【後編】 (2/4ページ)
さらに1394年(応永元年)、義満は将軍職を子の義持に譲り、翌年には太政大臣を辞します。皇位を狙う義満にとって、これらの地位は邪魔なだけだったのです。
仕上げとして、彼は明に使節を派遣して「国王御教書」ともいうべき文書を発します。その目的は、自分が天皇になった際、その地位を保障する権威を得ることでした。
翌年、明からの返書には「日本国王源道義」と書かれ、狙い通りの結果となります。
義満の死と天皇の権威の変化しかし義満の野望は、彼の突然の死で終わりを迎えます。1408年(応永15年)、彼は危篤に陥ってわずか2日後に世を去りました。
その後、将軍職は義量・義教が継ぎますが、彼の時代に変化が訪れます。1438年(永享10年)、義教が朝廷に征伐の綸旨を要請したのです。