伝説で彩られた「元寇」「蒙古襲来」の真相に迫る!神風伝説とフビライの真の意図について解説【後編】
【前編】では、蒙古襲来の経緯と神風伝説について説明しました。
※【前編】の記事はこちら↓
【後編】では、蒙古襲来のフビライの真の目的について見ていきましょう。
定説では、フビライが元軍を日本に派遣した目的は、日本を高麗のよう征服し、服属させるためだったとされています。
これに対して、フビライが本当に征服したかったのは日本ではなく南宋だったという説があります。どういうことでしょうか。
遊牧民族の蒙古は、1271年に国号を元に改めました。一定の場所で農作物の生産を増やすことよりも、羊を増やすための土地を求めることに重きをおいており、新たな領土を得るために征服を続けていったのです。
ところが、フビライの時代に中国を征服していくうちに、彼らは農耕民の高い文明を知ることになりました。
そこで戦略を修正し、安定した農耕地を入手するために南宋を征服することを最大の戦略目標にしたのです。
そこでフビライは、当時、南宋と通好していた日本と国交を結び、南宋と日本との関係を断つことを画策します。
また、蒙古は高麗を服属させたことで高麗軍による南宋攻撃を可能にしていました。ここで日本と結べば、南宋軍が南下したときに海路を絶つことができると考えたのです。
つまり、フビライが日本へ国書を送ったのは、あくまでも国交樹立が主な目的だったということです。
しかし、そうであれば、なぜ鎌倉幕府を怒らせるような無礼な文面の国書を送ってきたのでしょうか。
目的はあくまで「国交樹立」これについて、フビライの国書はよく読むと決して強圧的ではないという説があります。
幕府を怒らせた国書の書き出しにある「上天眷命」という言葉も、実は蒙古では書き出しによく使う定型句でした。
また、「書を日本国王に奉ず」という表現も、読み方によってはフビライのほうが下に出ているとも考えられます。
さらに、国書の最後に使われた「不宣」という結びの言葉は、「臣下として従えというつもりはない」という意味だった可能性もあります。
この流れだと、「兵を用うるに至りては、それたれか好む所ならん」という文も、素直に「武力を使うようなことはやめましょう」と平和的な交渉を望んでいるようにも読めるでしょう。
つまり、フビライは日本に対等な国交関係を求めた可能性が高いのです。
ところが、日本が返書を出さないので、フビライは強大な武力を見せつければ日本は通好すると考えて日本に大軍を送りました。これが1度目の襲来です。
しかし、はなから日本の征服が目的ではなかったため、想定外の大風を機にあっさりと撤退したわけです。
その後、元は1276年に南宋を征服したので、もはや日本と国交を結ぶ必要もなくなりました。
そこで、次に問題になるのは二度目の蒙古襲来の目的です。
蒙古襲来は「雇用創生」?1275年9月、幕府の執権北条時宗が元の使者を斬首します。これにフビライが激怒して、2度目の蒙古襲来になりました。
しかしこれも、フビライの本当の目的は他にあったという説があります。
フビライは南宋を征服したものの、降伏したたくさんの南宋の兵士の処分に頭を悩ませていました。兵士として残すと膨大な費用がかかるからで、それに彼らを放置すれば将来的に叛逆されるおそれもありました。
だからといって、兵を辞めさせてしまえば浮浪者や盗賊などになって社会を乱す要因になりかねません。
そこで、フビライが不安因子の彼らに与えた「仕事」が、2度目の蒙古襲来でした。つまり2度目の蒙古襲来はフビライにとっては失業者対策であり、雇用創生の政策でもあったということです。
実際、弘安の役で日本にやってきた14万の元軍は元・高麗・南宋の兵士による混成軍でしたが、その実態は大半が高麗や南宋の兵士でした。
彼らが乗ってきた軍船も、元が高麗や南宋に造らせた粗製乱造の脆弱なものでした。その結果、船は大風によって簡単に壊滅して多数の兵士が海の底に沈みました。
こうして、結果的にはフビライの頭を悩ませていた南宋の兵士の問題も解消したわけです。
こうした視点から見ていくと、2度目の蒙古襲来は日本征服よりも元の内部問題の解決策だったとも考えられます。
私たちが今まで学んできた「元寇」あるいは「蒙古襲来」の実態は、従来のイメージとはかなり異なっていた可能性があるのです。
参考資料:日本歴史楽会『あなたの歴史知識はもう古い! 変わる日本史』宝島社 (2014/8/20)
画像:photoAC
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
