源義経の「鵯越の逆落とし」は実行不可能だった!?「一ノ谷の戦い」で平氏が敗れた本当の理由とは?【後編】

奇襲戦法は実行不可能!?
前述の、義経のあとに3000騎が続いたというのは『平家物語』の記述によるものですが、『源平盛衰記』には、このとき義経に続いた畠山重忠の様子が記されています。
※前回の【前編】の記事↓
源義経の「鵯越の逆落とし」は実行不可能だった!?「一ノ谷の戦い」で平氏が敗れた本当の理由とは?【前編】それによると、重忠は「ここは大変な悪所です。馬をいたわりましょう」と言って大きな馬を背負い、椎の木をねじ切って杖にし、大岩を静々と下りていきました。
大きな馬を背負いながら下りていったというのも俄かには信じられませんが、実際、誰もが馬で駆け下りられたわけではないでしょう。

『平家物語』の3000騎は誇張としても、何十騎もの騎馬武者たちが険しい崖を真っ逆さまに駆け下りることが、果たして可能だったのかは疑問です。
また、それとは別に、奇襲戦法そのものがなかったという説もあります。その根拠は、鵯越の位置にあります。鵯越という地名は今もありますが、実は、そこは鞍部の山道なのです。険しい所ではありません。
そして、その鵯越という山道を義経のように下ったとしても一ノ谷には出ないのです。なぜなら、そこにはまた山があるからです。
つまり、現在の鵯越では『平家物語』が伝えるような義経の鵯越の逆落としはありえないのです。

鵯越の逆落とし『源平合戦図屏風』「一ノ谷」(Wikipediaより・一部抜粋)
そこで、義経の軍勢が実際に駆け下りたのは鵯越ではなく、現在の鴨越より西側にあたる鉄拐山(鉄拐峰ともいいます)や鉢伏山あたりではないかという説もあります。
また百歩譲って、一ノ谷の戦いで義経がとった奇襲戦法が、鵯越ではなく別の場所からの逆落としだったとしても、この合戦の源氏の勝因は別にあったという指摘もあります。
その勝因とは、後白河法皇から平氏に送られた一通の手紙です。
後白河法皇の謀略手紙は、義経の奇襲が行われる前日の二月六日、平氏の陣中に法皇の近臣が届けました。そこにはこう書かれていました。
「和平交渉を行うので、八日に院使を送る。その間、戦うことがないように。このことは源氏にも伝えている。平氏の軍勢にもその旨を伝えるように」
法皇からの院宣であり、手紙を受け取った平氏の軍勢は従わないわけにはいかなかったはずです。言われるままに武装解除しました。
ところがその翌日、休戦中のはずの源氏が襲来したわけで、平氏の軍勢は源氏が攻めてくることはないと思って休んでいますから、どんな攻撃でも「奇襲」になってしまうのです。
つまり、一ノ谷の戦いで源氏が勝った真の原因は義経の鵯越の逆落としという奇襲ではなく、後白河法皇の謀略だったのです。

この謀略が実際にあったことは、鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』に記されています。
それによると、源氏に生け捕りにされた平重衡が讃岐の平宗盛に書状を送っているのですが、その返事の中には「院宣に従うために近境に行幸します」と書かれていました。さらに、前述した院宣の内容も記してありました。
平氏が京に向かったのは、和平交渉が行われるという法皇の院宣のためであり、つまり彼らは法皇におびき出されたというわけです。
結局、平氏の軍勢は義経ではなく後白河法皇に騙されたのだと言えるでしょう。
参考資料:
日本歴史楽会『あなたの歴史知識はもう古い!変わる日本史』宝島社(2014/8/20)
画像:photoAC,Wikipedia
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