弥生人は文字を読み書きできたのか?衝撃の「硯(すずり)」出土がもたらす考古学の新たな可能性

衝撃の硯片の発見
玄界灘に面した福岡県糸島市は、3世紀の倭(日本)を記録した史書「魏志倭人伝」が記す伊都国の所在地とみられています。
その王都と目される三雲・井原遺跡で、日本列島の文字文化の始まりを捉え直す弥生時代の硯(すずり)が出土しました。

三雲・井原遺跡の一部をなす三雲南小路遺跡(Wikipediaより)
それは紀元前1世紀~後2世紀ごろの土器だまりで2015年に発掘された縦6センチ、幅4・3センチ、厚さ6ミリの石片で、翌年には厚さの違う別の硯片も確認されました。
片面を研磨して薄く仕上げる特徴は、楽浪郡の遺跡で出土した硯と同じ。楽浪郡とは現在の北朝鮮に紀元前2世紀末に置かれた中国の出先機関で、後3世紀初めには南半分が帯方郡となります。
倭人伝は、倭の女王・卑弥呼が魏に遣使して「上表」したとか、帯方郡の役人が皇帝の「詔書」を携え倭国を訪れたなどと伝えています。
これを読むと、倭人が中国語を理解して漢文で外交文書を作成したかのようですが、これを裏付けるような考古学の出土遺物がなかったため、研究者の見解は分かれていました。
しかし硯の発見は、この地で筆を用いた文書がしたためられたことを示しています。倭人伝が記す伊都国の特別な地位が改めて注目されています。
伊都国は倭人伝の国で唯一「世々(代々)王あり」と特記されています。三雲・井原遺跡とその周辺では「雲南小路」「平原」など多数の中国鏡を副葬する王墓が確認されており、魏にかけての歴代王朝から厚遇されていたことがうかがえます。
また、倭人伝は伊都国を「往来する郡使(帯方郡の使者)が常に駐在する所」と記します。「一大率」という官も置かれ、「魏や帯方郡、韓国に向かう使者、また帯方郡からの使者港に迎えて、贈答する文書や品物に誤りがないかチェックした」とも伝えています。

前述の硯が見つかった地点(番上地区)では、国内でほかに例のない密度で楽浪系土器が集中していました。
楽浪や帯方で作られた灰色の土器が、他の遺跡では単体または散発的に出土する中、狭い範囲で壺や鉢、盆など数十点が出土したのです。
このことから、この地には楽浪の人々が長期にわたり居住していた可能性があるのです。伊都国に楽浪の外交官が駐在して、倭の外交の実務を担ったのではないかとみる専門家もいます。
全国の弥生時代~古墳時代前期の遺跡で出土した文字資料を集成しても、今のところ倭人自らが残した「文章」は確認できていません。
おそらく、当時の文字使用は外交を担う一部の識字層に限定されており、倭人一般が日常的に使用していたのではないでしょう。
国内向けの文章が確認されるようになるのは古墳時代中期(5世紀)の刀剣銘からで、本格的な文字文化の普及は木簡が出土し始める7世紀以降とみられます。

古墳時代前期までに確認されるのは、特定の文字を見よう見まねで写したとみられるものです。三雲・井原遺跡では3世紀中頃の甕に、「竟(鏡)」の字体と類似した線刻が確認されています。
これは甕に張った水を鏡に見立てたとみる見解もあり、それが本当なら、これを描いた人は文字の意味を理解していたことになります。
また、各地の遺跡でも「田」「大」といった文字を刻んだ土器がいくつか報告されており、倭人たちは純粋な漢字の読み書きはできなかったかも知れませんが、そこに込められた記号的・呪術的な意味は感じ取っていたのかもしれません。
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画像:photoAC,Wikipedia
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