なんと10年にも及ぶ過酷なサバイバル生活!波乱と苦難…江戸時代の漂流民・大黒屋光太夫の生涯【前編】 (2/3ページ)

Japaaan

さて、一行は出発したものの、当時は低気圧が記録的な猛威を振るっており、小浜港から遠州灘中程に差し掛かった頃には大時化(おおしけ)に襲われました。そして烈風によって神昌丸の帆は吹き飛ばされ、外艫(そとども)と舵が破損するという致命傷を受けました。

最後には転覆を恐れて帆柱を切り倒し、完全に帆走力を失った神昌丸は、ただひたすら波に漂うだけの漂流船になってしまったのでした。そして他の船によって伊豆大島付近で目撃されたのを最後に、神昌丸は日本から姿を消したのです。

過酷な漂流生活

その後、光太夫たちを乗せた神昌丸は8ヶ月もの間、北太平洋を漂流しました。御用米がたくさんあったため飢えはしなかったものの、やがて飲み水が底をつき、17人を苦しめました。

彼らはふらふらの体で樋を作り、酒樽の酒を捨てて空にしては雨水を集め、なんとか飲み水を確保して生き延びようとしました。それでも栄養不足は解決出来ず、乗組員たちは夜盲症になり、夜暗くなるとほとんど目が見えなくなりました。

天明3年7月15日、ついに死者が出ました。幾八という乗組員が、顔はどす黒く、手足は紫になって浮腫み、歯茎が腐り、ひどい下痢に苦しんで死んだのです。ビタミンCの欠乏から各器官が弱って出血し、死に至る壊血病でした。

一同は幾八を泣く泣く海に葬り、明日は我が身と希望を失いかけたその5日後、ついに夢にまで見た陸地が見えてきたのでした…!

アムチトカ島

光太夫一行が着いたのは、北太平洋アリューシャン列島の中のアムチトカ島という島でした。海獣の皮などを身に纏った先住民のアレウト人と出会った時は、殺されるかもしれないという危機感をも持った光太夫一行でしたが、それは杞憂であり、光太夫たちは言葉も通じないアレウト人と共に島で暮らす事になったのでした。

「なんと10年にも及ぶ過酷なサバイバル生活!波乱と苦難…江戸時代の漂流民・大黒屋光太夫の生涯【前編】」のページです。デイリーニュースオンラインは、漂流大黒屋光太夫江戸時代カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る