なんと10年にも及ぶ過酷なサバイバル生活!波乱と苦難…江戸時代の漂流民・大黒屋光太夫の生涯【前編】

「ロシアのラクスマンが通商を求め、漂流民・大黒屋光太夫を乗せて船で日本に来航した」。
日本史の教科書でこんな1文を見た事があるかと思います。この大黒屋光太夫の漂流の物語は、実はこのような1文では言い表せないほどの波乱と苦難に満ちたものでした。今回はそんな光太夫の10年にわたる漂流の物語に迫ります。
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天明2年(1782)12月、伊勢の船乗り大黒屋光太夫の千石船「神昌丸」は紀州藩御用の蔵米250石を積み、伊勢の白子港から江戸に出発しました。この時、船頭の光太夫は32歳。貫禄を備え、情に厚くリーダーシップもあり、16人の乗組員にも慕われていました。
さて、一行は出発したものの、当時は低気圧が記録的な猛威を振るっており、小浜港から遠州灘中程に差し掛かった頃には大時化(おおしけ)に襲われました。そして烈風によって神昌丸の帆は吹き飛ばされ、外艫(そとども)と舵が破損するという致命傷を受けました。
最後には転覆を恐れて帆柱を切り倒し、完全に帆走力を失った神昌丸は、ただひたすら波に漂うだけの漂流船になってしまったのでした。そして他の船によって伊豆大島付近で目撃されたのを最後に、神昌丸は日本から姿を消したのです。
過酷な漂流生活その後、光太夫たちを乗せた神昌丸は8ヶ月もの間、北太平洋を漂流しました。御用米がたくさんあったため飢えはしなかったものの、やがて飲み水が底をつき、17人を苦しめました。
彼らはふらふらの体で樋を作り、酒樽の酒を捨てて空にしては雨水を集め、なんとか飲み水を確保して生き延びようとしました。それでも栄養不足は解決出来ず、乗組員たちは夜盲症になり、夜暗くなるとほとんど目が見えなくなりました。
天明3年7月15日、ついに死者が出ました。幾八という乗組員が、顔はどす黒く、手足は紫になって浮腫み、歯茎が腐り、ひどい下痢に苦しんで死んだのです。ビタミンCの欠乏から各器官が弱って出血し、死に至る壊血病でした。
一同は幾八を泣く泣く海に葬り、明日は我が身と希望を失いかけたその5日後、ついに夢にまで見た陸地が見えてきたのでした…!
アムチトカ島
光太夫一行が着いたのは、北太平洋アリューシャン列島の中のアムチトカ島という島でした。海獣の皮などを身に纏った先住民のアレウト人と出会った時は、殺されるかもしれないという危機感をも持った光太夫一行でしたが、それは杞憂であり、光太夫たちは言葉も通じないアレウト人と共に島で暮らす事になったのでした。

のちに分かった事でしたが、島にはラッコなどの海獣の毛皮をロシア人が多く滞在しており、交易という名目でアレウト人を隷属して島の資源を搾取していたのです。
未開のアムチトカ島の環境は決して整ったものではなく、食べ物も粗末で気温は日本と比べ物にならないほど寒く、服も動物の毛皮を着るしかないといった状態でした。漂着時点で16人だった神昌丸の乗組員はこの島で次々と命を落とし、9人にまで減ってしまいました。
「せっかく陸に上がったのにこのままでは全滅してしまう」
危機感を抱いた光太夫たちは、生き延びるために死に物狂いで島の言葉とロシア語を覚え、アレウト人とロシア人と交流を深めるのでした。
島から脱出彼等にはたった一つ、希望がありました。それはロシア人から聞いた「3年経てばロシアの船が迎えに来る」という言葉でした。島のロシア人は3年交代で島に滞在しており、彼等の厚意で次に船が来たら光太夫達も一緒に乗せてもらえる事になったのです。そして運命の3年目、本当にロシア船は迎えに来ました。
助かった!
一同の狂喜乱舞もつかの間、天候が悪化し、希望の船は目の前で難破。意気消沈した光太夫たちは、もはや船を待つ事を諦め、ロシア人たちと手を組んで0から船を作る事を決めたのでした。
難破船などから使えそうな釘や流木などの廃材を集め、ようやく彼等はアムチトカ島を抜け出したのです。
漂着から4年。生きるか死ぬかのサバイバル生活の中で、一同の顔はひどく年を取ったような苦渋に満ちた表情に変貌していました。
次回の【後編】に続きます。
参考文献:山下恒夫 『大黒屋光太夫―帝政ロシア漂流の物語』岩波新書 岩波書店
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