古代日本最大の謎!邪馬台国の所在論争「畿内説」か「九州説」か?の現在を学説を交え解説

邪馬台国論争
邪馬台国の所在論争のメインは「畿内説」と「九州説」の両説で、論争が繰り広げられてきました。
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邪馬台国の場所「九州説vs畿内説」はもう古い?邪馬台国と倭の情勢を国際関係から読み解く【前編】邪馬台国は、中国・魏(220~265年)の歴史書「魏志倭人伝」に登場します。男子を王としたものの、倭国は70~80年にわたって乱れました。そこで人々は共に一人の女子を立てて王にしました。女王・卑弥呼の誕生です。

邪馬台国は「女王の都する所」と説明されます。魏志倭人伝で邪馬台国の文字が出てくるのはこの一か所だけです。その位置についても、他国からの方角や距離が大まかに示されているだけで、特定はできません。
この問題については教科書などでも長く、畿内・九州の両論が併記されてきました。
畿内説の現在しかし近年、考古学の成果から「畿内説」が有力と踏み込む記述も見られます。その根拠は、我が国の国家形成過程を探る鍵を握る「纏向遺跡」(奈良県桜井市)の発掘成果です。
纏向遺跡は、3世紀初頭の大和地方(奈良盆地)に突然出現した集落遺跡です。

九州や関東の土器が多数出土し、高度な鉄器生産の痕跡、中国の神仙思想で不老長寿の象徴とされる桃の種も見つかりました。居館全域の推定面積は約1万5000平方メートルで、列島最大規模です。
纒向遺跡で出現した特徴的な前方後円墳が全国に見られるのも強みで、この地の最大の前方後円墳「箸墓古墳」を卑弥呼の墓と主張する研究者もいます。
箸墓古墳は”卑弥呼の墓”で決まりか?日本最大・最古クラスの古墳の秘密に最新学説が迫る【前編】魏志倭人伝によると、卑弥呼は九州に一大率(出先機関)を置き、物資の流通も盛んになりました。政治的に傑出したその姿は、纒向遺跡の発掘成果と呼応するといえるでしょう。
研究者の中には、纏向は『ヤマト王権』と呼ばれる、九州から東北まで射程に入れた倭国の政治の中枢であり、倭国の女王である卑弥呼がいた邪馬台国もこの地と考えることが論理的だと考える人もいます。
筑紫平野には邪馬台国連合があったか対する「九州説」では、福岡県南部から佐賀県南部に広がる筑紫平野の複数の環濠集落が連携し、「邪馬台国連合」を形成したとの説が近年、注目を集めています。
魏志倭人伝には、邪馬台国が強権的な征服活動を行った記述はなく、複数の国が卑弥呼を「共立」したとする記述と発掘成果を照らし合わせたのです。
筑紫平野の各環濠遺跡では鉄や朱、青銅器を一か所で独占して製造していなかったようで、分担製造し、供給しあった様子がうかがえます。
また平野を望む高台に複数の監視集落の跡もあり、共同で外敵の進入を防いだ姿も見て取れます。

筑紫平野にできた邪馬台国連合は卑弥呼の死後に衰退しており、3世紀後半以降にこの地に前方後円墳が築かれていることから、近畿のヤマト王権の影響下に入ったと考える研究者もいます。
魏志倭人伝の「七万余戸」という記述からすると、北部九州説は「スケールが小さい」との反論もありますが、各遺跡の成果を総合すれば、纒向をしのぐ内容を持っているともいわれています。
卑弥呼が魏から与えられた金印などの決定打はなく、結論はいまだ出ませんが、近畿・九州双方の地道な発掘成果が議論の深化につながっていることは間違いありません。
参考資料:
中央公論新社『歴史と人物20-再発見!日本史 最新研究が明かす「意外な真実」』宝島社 (2024/10/7)
画像:photoAC,Wikipedia
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