幻と消えた平清盛の夢…わずか半年で消滅した「福原京」への遷都の経緯とその失敗の理由【後編】

清盛の誤算
【前編】では、平清盛による「福原京」への遷都について説明しました。【後編】では、この福原京があっという間に消滅した経緯とその後についてみていきましょう。
※【前編】の記事↓
幻と消えた平清盛の夢…わずか半年で消滅した「福原京」への遷都の経緯とその失敗の理由【前編】当初は内裏もなく、平氏の邸宅を天皇や上皇の滞在場所とした福原京でしたが、やがて清盛が内裏の造営に取りかかり、公卿の邸宅も建ちました。
一方、天皇即位に関連する儀式大会について、福原で挙行することに貴族の間で否定的な意見が広がったため延期されます。このあたりで、既に福原京の未来は暗雲が立ち込めていました。
11月、完成した内裏に天皇を迎えるも、上皇や平氏内部からも還都を主張する声が強まり、2週間後に都を平安京に戻さざるを得なくなります。
これが遷都が失敗した経緯ですが、失敗の要因は単に貴族が反対したからというだけではなく、平氏に対する反乱の激化が大きな原因ではないかと考える研究者もいます。
当時は、後白河法皇の皇子・以仁王による平氏討伐の旨に呼応して、源頼朝が8月に伊豆で挙兵しています。そして10月には、平氏を中心とする追討軍が富川合戦で敗北していました。

そして京都の隣の近江でも反平氏の勢いが強まります。こうなると都を戻して対処せざるを得ず、おそらくここまで急速に事態が悪化するとは清盛も予測できていなかったのでしょう。
福原京の消滅福原京への天皇の滞在はわずか半年に過ぎませんでした。また統治機関も未整備のままだったので、果たしてこの「京」は正式な都だったと言えるのか、それとも離宮にすぎなかったのか、研究者の間では議論が分かれています。
とはいえ、長く宮中の内侍所を離れることがなかった神鏡を含む三種の神器が福原に移されたことは大きな出来事で、こうした点からも福原京への遷都について清盛の本気ぶりが窺い知れます。

平安京への還都後は、平氏の軍勢が一時的に盛り返しました。
しかその翌年、清盛が病死。寿永2年(1183年)には源氏の軍勢が京都に迫り、平氏は都落ちします。西国に逃げる途中、清盛の子・宗盛らは福原の内裏を焼き払いました。
こうして、福原京は名実ともに「消滅」したのです。
遺構から分かること短命に終わった福原京の実態は、考古学的にも徐々に明らかになってきています。
福原京の中心地とみられる祇園遺跡(神戸市兵庫区)では、1994年の調査で、石を敷き詰めた池の遺構が確認されました。ここは清盛の長男・重盛の邸宅だった可能性が指摘されています。
注目されるのは、短期間に2度、庭の池を造り替えた痕跡があったことです。
こうした庭は持ち主の趣味を反映するものですが、それが造り替えられたということは、主の入れ替わりがあったのではないかと考える研究者もいます。
当時は、平安京から移ってきた皇族や貴族に邸宅を明け渡したケースがあったことから、この遺構はそれを裏付けるものだと言えるでしょう。
また、同じ場所で京都製の瓦も見つかりました。京都で作られた瓦が他地域で見つかることはほとんどないため、建物は平安京から移築された可能性が高いです。

その他、福原京跡の一帯では、中国で焼かれた珍しい焼き物も見つかっており、貿易による繁栄を物語っています。
しかし鎌倉時代以降はここでの生活の痕跡が少なくなっており、貴族の邸宅が立ち並んだ「都」から田園地帯に変わっていったことが分かります。まさに諸行無常ですね。
参考資料:
中央公論新社『歴史と人物20-再発見!日本史最新研究が明かす「意外な真実」』宝島社(2024/10/7)
画像:photoAC,Wikipedia
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan