軍部暴走の元凶、稀代の戦略家…日本陸軍のカリスマ軍人・石原莞爾とは何者だったのか? (2/3ページ)

Japaaan

当時の満蒙は中国の主権下にあり、同地域の権益をめぐって日本と中国が対立関係にありました。石原は関東軍による満蒙領有計画を立案し、高級参謀の板垣征四郎とともに準備を進めます。

板垣征四郎(Wikipediaより)

そして31年9月18日、関東軍は柳条湖事件をきっかけに奉天、長春、営口などの都市を占領。そこへ独断越境した朝鮮軍も加わり、錦州を爆撃しました。

陸軍中央や政府の不拡大方針を無視するかたちで戦線は拡大していき、32年2月には満洲全土をほぼ占領します。

翌月、愛新覚羅溥儀を皇帝とする満洲国が成立し、「王道楽土」「五族協和」がスローガンに掲げられました。「五族」は日本人、満洲人、漢人、モンゴル人、朝鮮人のことで、ここで最終戦争である日米決戦に向けての第一段階をクリアしたのです。

石原は民族協和による統治を構想し、満洲国協和会が関東軍から自立して国家をけん引することを望んでいました。

挫折と失脚

しかし、実際には関東軍が満洲国のすべての実権を握り、石原の理想とはかけ離れた状況になっていきます。

「世界最終戦争論」はその後の東西冷戦を予言したもので、石原が満洲事変を起こしたのは、のちに予想される対米戦に対して、東アジアにおける経済圏の強化を目指したからでもありました。

対中強硬派のイメージがあるかも知れませんが、1937年の盧溝橋事件に端を発する日華事変(日中戦争)には反対の立場を取り、東亜連盟の樹立を目指しています。

しかし、日中戦争の戦線不拡大を唱えたものの、現地参謀であり拡大派でもあった武藤章に一蹴されてしまいます。

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