実は『百人一首』の編者は藤原定家ではない!?では本当の編者の正体は?最新学説と教科書の動向を紹介

『百人一首』と『百人秀歌』
〈秋の田のかりほの庵の苦をあらみ我が衣手は露に濡れつつ〉という天智天皇の歌で始まる小倉百人一首。これは鎌倉時代の歌人・藤原定家が編者だとされています。
定家は、親戚で御家人である蓮生(宇都宮頼綱)の依頼で、京都の山荘の襖を飾る障子歌を書くことになり、歴代100人の歌人の作品から1首ずつ選んだと言われていますね。
実際、定家は日記『明月記』の1235年5月27日の記録で、〈天智天皇から家隆雅経卿までの古来の人の歌各一首〉〈嵯峨中院〉を飾るための〈障子色紙形〉に書いて贈ったと記述しており、これが『百人一首』に当たると考えられてきました。

しかし近年の研究では、これは別の撰集『百人秀歌』だとする説が有力になりつつあります。
『百人秀歌』は全101首あり『百人一首』の基になったもので、奥書などから定家撰と言われています。
うち97首は『百人一首」と同じ歌を収めていますが、『百人一首』の最後を飾る後鳥羽院と順徳院の2首がなく、収録の配列が異なるのが特徴です。
政治家・藤原定家ポイントは、1221年の承久の乱で鎌倉幕府に敗れた後鳥羽院と順徳院が、隠岐と佐渡にそれぞれ配流されていることです。
当時、定家は宮廷歌壇の大御所で、常に政治的な状況を意識して行動していました。御家人である蓮生への贈与品に、両上皇の歌を含む『百人一首』を編むのは不自然なのです。
よって『明月記』で記述されているのは『百人一首』ではなく『百人秀歌』を指すと考えられます。
藤原定家が極めて政治的な人物だったとする考え方は、『明月記』の他の記述からも読み取れます。
例えば、後鳥羽院を念頭に置いたとみられる1227年10月24日の記録には〈神仏に祈っている旨がある。今生において帰りを待つ事、すなわち貴人の御事だ〉という一文がありますが、これは隠岐院ではなく、〈貴人〉とぼかしたのでしょう。
また定家は、後堀河天皇の命で『新勅撰和歌集」を編んだ際、1234年6月にほぼ完成させるも、8月の崩御を受けて改稿し、後鳥羽院と順徳院の歌を草稿から削除したとされています。

定家のこうした行動は極めて政治的なニュアンスを含むもので、こうした人物像に照らし合わせると、彼が『百人一首』を編纂したとはちょっと考えられないという結論になるのです。
最近は、高校の国語資料集で〈定家が選んだ百人の歌人の秀歌集〉という記述をやめる動きもあります。
では、一体誰が『百人一首』を編んだのでしょうか?
歌僧・頓阿の存在たびたび挙げられてきたのは、定家の息子・為家によるものだという説です。
その根拠の一つは、冷泉家時雨亭文庫(京都)所蔵の『百人秀歌』の写本です。その跋文(あとがき)には、『百人一首』は為家が改訂したと明記されているのです。
それだけだと、もう答えが書いてあるように思われるかも知れませんが、しかし為家が亡父の撰集に大幅な改編を加えた例が他に見られないことなどから、この真偽について疑問視する見方もあります。
そんな中、研究者によって唱えられている新しい説が、為家直系の和歌の家・二条家に師事した頓阿(とんあ/とんな)の存在です。

頓阿は後鳥羽院の歌論を強く意識しながら、家の伝統を守り抜こうとした地下(じげ)の歌僧で、自著で〈嵯峨の山庄の障子に上古以来哥仙百人のにせ絵を書きて、各一首の哥を書きそへられたる〉と百人一首の存在に言及しているのです。
後鳥羽院は死後、文学者として復権しており、いつまでも『百人秀歌』の中で定家との関係が断絶したままではいけないと頓阿は考えたのかも知れません。
彼に偽書を作る意識はなく、『百人一首』の形で、定家の真の姿を世に出したいと思ったのではないか――。最近はこんな推測もなされています。
参考資料:
中央公論新社『歴史と人物20-再発見!日本史最新研究が明かす「意外な真実」』宝島社(2024/10/7)
画像:photoAC,Wikipedia
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