実は『百人一首』の編者は藤原定家ではない!?では本当の編者の正体は?最新学説と教科書の動向を紹介 (1/3ページ)
『百人一首』と『百人秀歌』
〈秋の田のかりほの庵の苦をあらみ我が衣手は露に濡れつつ〉という天智天皇の歌で始まる小倉百人一首。これは鎌倉時代の歌人・藤原定家が編者だとされています。
定家は、親戚で御家人である蓮生(宇都宮頼綱)の依頼で、京都の山荘の襖を飾る障子歌を書くことになり、歴代100人の歌人の作品から1首ずつ選んだと言われていますね。
実際、定家は日記『明月記』の1235年5月27日の記録で、〈天智天皇から家隆雅経卿までの古来の人の歌各一首〉〈嵯峨中院〉を飾るための〈障子色紙形〉に書いて贈ったと記述しており、これが『百人一首』に当たると考えられてきました。
しかし近年の研究では、これは別の撰集『百人秀歌』だとする説が有力になりつつあります。
『百人秀歌』は全101首あり『百人一首』の基になったもので、奥書などから定家撰と言われています。
うち97首は『百人一首」と同じ歌を収めていますが、『百人一首』の最後を飾る後鳥羽院と順徳院の2首がなく、収録の配列が異なるのが特徴です。
政治家・藤原定家ポイントは、1221年の承久の乱で鎌倉幕府に敗れた後鳥羽院と順徳院が、隠岐と佐渡にそれぞれ配流されていることです。
当時、定家は宮廷歌壇の大御所で、常に政治的な状況を意識して行動していました。御家人である蓮生への贈与品に、両上皇の歌を含む『百人一首』を編むのは不自然なのです。