「石と水の都」を築いた飛鳥時代の女帝・斉明大王!益田岩船など飛鳥京造営の遺構に秘められた謎を探る【後編】

Japaaan

「石と水の都」を築いた飛鳥時代の女帝・斉明大王!益田岩船など飛鳥京造営の遺構に秘められた謎を探る【後編】

大化の改新後に政治的指導者として活躍した女帝・斉明大王は、明日香の地に「石」と「水」を調和させた都を整備し、飛鳥京を造営しました。

最終回となる[後編]では、斉明が永遠の眠りにつくために造らせた牽牛子塚古墳と、その墓と深い関わりを持つ益田岩船について、女帝が抱いたであろう思いを紹介します。

※これまでの記事↓

「石と水の都」を築いた飛鳥時代の女帝・斉明大王!益田岩船など飛鳥京造営の遺構に秘められた謎を探る【前編】

「石と水の都」を築いた飛鳥時代の女帝・斉明大王!益田岩船など飛鳥京造営の遺構に秘められた謎を探る【中編】

激動の時代をリードした女傑の死

斉明女帝が重祚、すなわち2度目の即位を果たしたのは、655年1月3日、62歳の時でした。男女ともに平均寿命が80歳を超える現代の日本では、62歳はまだまだ働き盛りであり、政治の世界では脂が乗り切った年齢と言えるでしょう。

『御歴代百廿一天皇御尊影』より「斉明天皇」(写真:wikipedia)

しかし、医療が未発達で栄養面でも不十分だった飛鳥時代の62歳は、現代の80歳代半ばに相当すると考えられます。それほどの年齢でありながら、斉明は国家の頂点に立ち、複雑な政治状況や緊迫する国際情勢に対応していました。

こうした斉明の姿は、まさに古代のスーパーウーマンと呼ぶにふさわしいものです。

しかし、そのような斉明もまた、重祚後は自分に押し寄せる老いをひしひしと感じていたことでしょう。

そうした中、660年7月に百済が唐と新羅の連合軍によって滅ぼされます。この事態を受け、百済の遺臣たちは日本に救援を要請。朝廷は、人質として日本に滞在していた百済の王子・扶余豊璋(ふよほうしょう)を復興のため百済に送り返します。

さらに斉明は朝議を開き、百済の救援および唐・新羅との戦いを決定。難波宮に行幸し、ここを拠点に急ぎ武器と船舶の準備を進めさせました。

『古今偉傑全身肖像』より「天智天皇」(写真:wikipedia)

翌661年1月、斉明天皇は皇太子・中大兄皇子(天智大王)、その弟・大海人皇子(天武天皇)らを従え、自ら船団を率いて瀬戸内海を西に進み、5月9日に筑紫の朝倉宮に遷幸。ここを前線基地として、第一次遠征軍の出発を見送ります。

しかし、さしもの女傑も老いには勝てず、7月24日、斉明は朝倉宮にて崩御。享年67歳、波乱に満ちた人生に幕を閉じたのです。この死は、激動の時代をリードした斉明らしい最後と言えるのではないでしょうか。

石にこだわった斉明が望んだ寿陵

さて、ここからは益田岩船と牽牛子塚古墳に話を戻しましょう。

益田岩船(写真:wikipedia)

古代より時の権力者たちは、生前に自分の墓を準備する慣習がありました。これを寿陵(じゅりょう)と呼び、その起源は秦の始皇帝に遡るとされています。

生前に墓を築くことは、長寿や子孫繁栄をもたらす縁起の良い行為とされ、古代中国の歴代皇帝たちはこぞって寿陵を造営しました。

この慣習は、やがて朝鮮半島を経て倭国にも伝わります。日本では、4世紀頃から巨大な前方後円墳が造営され、これも寿陵の一種と考えられています。

被葬者は自身の長寿と子孫繁栄を願い、陵を造る人々は被葬者の庇護による平安を求めたのです。

日本最古級の寺院飛鳥寺の本尊飛鳥大仏(写真:高野晃彰)

この考えは、仏教が伝来した飛鳥時代にも続きました。高齢で重祚した斉明大王は、誰よりも長寿を願ったことでしょう。そのため、彼女は寿陵を造る際に、自身の好みを強く反映したと考えられます。それが益田岩船であり、牽牛子塚古墳でした。

これまで述べてきたように、斉明が造営した飛鳥京は「石」と「水」の都でした。特に斉明がこだわったのは「石」で、宮殿の石敷きや石垣、苑池の護岸、石造物などに多く用いられています。そんな斉明だからこそ、自らの陵墓にも巨岩を用いることを望んだのではないでしょうか。

家族愛にあふれた女帝の墓域

益田岩船が存在する丘陵には、岩肌が露出している場所があり、この山には石材が豊富であることがわかります。

その岩は、花崗岩の一種である飛鳥石でした。そう、斉明が飛鳥京の守護のために造った両槻宮の石垣に用いたあの石です。

すなわち、益田岩船は斉明大王の寿陵(じゅりょう)の石室として、この山で加工作業が行われたものの、工事途中で2つの穴のうち片方に亀裂が生じてしまい、ここに放棄されたものでした。これは、岩船の2つの穴のうち、片方には水が溜まっているが、もう片方には溜まっていないことからもわかります。

上方から見た益田岩船(写真:wikipedia)

そもそも花崗岩の飛鳥石は、硬く耐久性に優れた高品質の石です。そのため、加工が難しく、作業を行った石工たちは苦労したことでしょう。

しかし、斉明が飛鳥石を好んでいたことを知っていた石工たちは、女帝の望みに応えるべく、懸命に加工作業に励んだと思われます。

斉明はおそらく現地を訪れ、石工たちの作業を視察していたと推測されます。そして、石工から益田岩船についてこれ以上の作業ができないとの説明を受け、さぞ失望したことでしょう。

益田岩船の2つの穴は、明らかに斉明ともう一人の人物を合葬する石槨であり、斉明の意図により設計されたことは間違いありません。

『日本書紀』によれば、斉明は658年の遺言で、寵愛していた皇孫の健王(天智大王の子)が8歳で亡くなった際、将来自分と合葬するよう命じました。したがって、その人物は健王であったと考えられます。

その遺言から3年後の661年、斉明は九州の地で崩御しました。亡骸は皇太子であった中大兄皇子(後の天智大王)に付き添われて飛鳥京に戻り、殯(もがり)の儀式が行われました。

復元された牽牛子塚古墳(写真:高野晃彰)

667年2月27日、即位して天智大王となっていた中大兄は、斉明と665年に薨去したその娘の間人皇女(孝徳天皇の皇后)を越智岡上陵に合葬。同日、斉明天皇の皇孫である大田皇女(大津皇子の母)も陵の前の墓に改葬されました。これが牽牛子塚古墳と越塚御門古墳です。おそらく、健王の小さな亡骸も斉明の懐に抱かれて葬られたのでしょう。

越塚御門古墳と後方の牽牛子塚古墳(写真:高野晃彰)

天智は母・斉明のために、墳丘全体を凝灰岩切石で装飾した白亜に輝く八角形墳を築きました。牽牛子塚古墳は、「石の女帝」と称された稀代の女傑・斉明大王にふさわしい御陵といえるでしょう。

白亜に輝く牽牛子塚古墳(写真:高野晃彰)

牽牛子塚古墳に眠る斉明大王と間人皇女。そして越塚御門古墳に眠る大田皇女は、ともに激動の飛鳥時代を生き、それぞれにその時代に大きな貢献をした女性です。

奈良に行く機会があれば、ぜひ明日香村まで足を延ばし、越智岡を訪れその奥津城で彼女たちの息吹を感じていただければと思います。

長い文章になりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「「石と水の都」を築いた飛鳥時代の女帝・斉明大王!益田岩船など飛鳥京造営の遺構に秘められた謎を探る【後編】」のページです。デイリーニュースオンラインは、飛鳥京益田岩船斉明斉明天皇明日香村カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る