【大河べらぼう】新章突入!平賀源内が去った後、史実を基に次なる局面を考察〜田沼意次 全盛と蔦重の成長〜[前編]

大河ドラマべらぼうの第16回「さらば源内 見立は蓬菜」。安田顕さんが演じた平賀源内の壮絶かつ悲しい最期は話題を呼び、未だ余韻を引きずる人も多いようです。
大河『べらぼう』煙草の罠、謎だらけの死、あの名セリフ…平賀源内(安田顕)の去りいく背中を惜しみつつ考察【前編】人気の主要人物、瀬川(小芝風花)・鳥山検校(市原隼人)そして、平賀源内(安田顕)が大舞台を去り第一章が幕を閉じるとともに、前回は新しく第二章の幕開けを感じました。
前回では、“新刊の名前を書いた短冊”を下げた桜の木を設置した舞台に、蔦屋重三郎(横浜流星)が口上役で上がり、宣伝をしていました。この場面は、新刊の一つ『伊達模様見立蓬莱』の巻末の一場面だといわれています。そして、幕を開けているのは蔦重自身。
蔦重(そして瀬川)の“夢”である「耕書堂」の新しい幕開けです。
今回は新章を前に、史実を踏まえながら今後を【前編】【後編】の2回に分けて考察してみました。【前編】では、田沼意次(渡辺謙)の権力拡大とともに成長を遂げた蔦重が、その失脚により窮地に陥る理由を紐解いてみたいと思います。

新刊の宣伝にもなった。『伊達模様見立蓬莱』国立国会図書館デジタルコレクション
田沼意次の権力拡大と蔦重の成長新キャストも発表され、「いざ!日本橋へ」と新たな幕が開く「べらぼう」。
史実では、この後の1783年、蔦屋重三郎は吉原から、著名な版元が軒を並べる日本橋に進出し、貸本屋から江戸屈指の自本問屋へと成長を遂げていきます。
その成功の道のりは、老中・田沼意次の全盛期と重なっていました。
第8代将軍・徳川吉宗が行った享保の改革を引き継いだ意次は、幕府が経済の基本とした米中心の重農主義(農業を重視する政策)から、商業を中心とした重商主義(商業を振興する政策)へと大きく舵を切ったのです。

そんな意次の政治は経済を拡大することになり、田沼時代は、江戸260年を通じて特に顕著な好景気を迎えることとなりました。
重商主義を基盤とした意次の経済母体は、当然のことながら、町人階級である商人や職人たち。一部を除き、とかく保守的な武士階級と異なり、世の中には町人たちが中心となる自由な気風がみなぎり、それが蔦重の商いである出版業にも良い影響を及ぼしたのです。

しかし、蔦重にとって恵まれたこの時代も、わずか3年で幕を閉じます。
息子の暗殺・大噴火・大飢饉が重なる…1784年、世子で若年寄の任にあった意次の嫡男・意知(宮沢氷魚)が江戸城内で暗殺されると、1786年には、浅間山大噴火が引き起こした天明の大飢饉(1783)への対応の失敗や、洪水による印旛沼開拓事業の挫折などが重なり、意次の権勢に暗雲が立ち込めます。

さらに、後ろ盾であった将軍・家治(眞島秀和)の死によって意次は失脚。ここに田沼時代は終焉を迎えたのでした。
松平定信が蔦重の後半生の障害に田沼意次に代わって老中となり、幕府の経営を担ったのが、陸奥白河藩主・松平定信(寺田心)です。定信は、田沼意次を嫌悪していた一方で、意次に賄賂を贈るなどして“幕政への参加を虎視眈々と狙っていた”とされています。
その政治理念は、田沼時代に特徴的だった重商主義を一掃し、従来の重農主義に戻すことにありました。
8代将軍吉宗の孫であり、御三卿田安家出身の松平定信は、一時期、次期将軍候補と目されるほどの高貴な出自を誇りました。
しかし、田沼意次と比較すると、定信はその家格の高さゆえに意次のような柔軟性に欠け、町人など下層階級の生活を深く理解する環境で育っていませんでした。

現代に例えるなら、祖父や父親の地盤を引き継いで国会議員に当選する二世・三世議員のようなものです。なぜそう言えるかというと、封建制度下の武士階級では世襲制が採用されていたからです。
この世襲制の下では、上級武士の子は、よほどの失敗をしない限り、祖先から受け継いだ高い家格、豊富な俸禄、重要な役職を継承できました。一方、下級武士の子は、よほどの機会に恵まれない限り、どんなに努力しても低い俸禄にとどまり、軽い役職にしか就けませんでした。
才覚で成り上がってきた意次と生まれつきの坊ちゃんの違いそういう意味では、定信は生まれつきの「おぼっちゃま」でした。足軽階級出身の父と同じく才覚だけで成り上がり、大名や老中にまで出世した意次とは、その出自があまりにも異なるため、同じ土俵で語ることはできないのです。
そうした定信の考えは、一橋治済と意次が人形師に扮して宴を盛り上げている場面で、後の定信となる田安賢丸が「武家が精進すべきは学問と武芸だ」と非難し、立ち去る第2話のシーンに描かれています。
しかし一方で、少年時代から堅物であるはずの定信が、第12話では青本『金々先生栄花夢』に興味津々とするシーンが登場します。

『金々先生栄花夢』を書いた黄表紙の祖、恋川春町(酒上不埒)wiki
この2つの相反する姿は、実際の定信をよく表しているといえます。武士は武士たるべきだという信念を持つ定信と、浮世絵を収集し、そうした文化にも理解を示した定信。この両者がともに彼の真実の姿だったのです。
松平定信にとって悪の根源は、田沼意次その人では、なぜ定信が寛政の改革のように柔軟性を欠き、厳しい政策ばかりを打ち出すに至ったのでしょうか。
その理由として考えられるのは、名門出身ゆえに、支配層である武家階級の堕落を許容できなかったことに尽きるでしょう。
そして、定信にとってその悪の根源は、田沼意次その人であったのです。
商業を重んじた意次の政治は、武士と町人との交流を活発化しました。『べらぼう』では、朋誠堂喜三二こと平沢常富(尾美としのり)、恋川春町こと倉橋格(岡山天音)、大田南畝こと大田直次郎(桐谷健太)といったれっきとした武士たちが、作家として蔦重たちと交流する姿が描かれています。


定信から見れば、彼らは「学問と武芸」を軽視する悪しき武士の代表でした。武士が町人とともに、文化サロンを形成すること自体、定信には許しがたいことだったのです。
さらに問題なのは、定信が極端な理想主義者であったことです。彼は自らの理想社会を実現するため、朱子学という儒学の中でも特に厳格な学問を用いて社会の統制を図りました。
このことが、蔦重やその周辺の人々の後半生に、大きな障害として重くのしかかるのです。

【前編】はここまで。【後編】では、松平定信(寺田心)が進めた寛政の改革による出版弾圧に対し、不屈の精神で立ち向かった蔦重についてお話しします。
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