南北朝時代の「南朝」はただの亡命政権ではなかった!その実態と北朝との共存関係が明らかに【前編】

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南北朝時代の「南朝」はただの亡命政権ではなかった!その実態と北朝との共存関係が明らかに【前編】

「南朝」の実態

今回は、漫画・アニメ『逃げ上手の若君』でも描かれている、南北朝時代の「南朝」の実像について前編・後編に分けて解説します。

後醍醐天皇が始めた建武の新政は、内部対立により2年余りで挫折しています。

新たな幕府樹立を目指す足利尊氏が1336年、京を制圧して光明天皇を立てると、位を追われた後醍醐は吉野(奈良県吉野町)に逃れて自分こそ正統な天皇であると主張しました。

後醍醐天皇(Wikipediaより)

ここに、およそ60年にわたる南北朝時代が始まったわけです。

ところで、足利幕府と一心同体だった京都の北朝に対し、吉野の南朝は山中に潜伏した亡命政権的なイメージがありますね。

1348年に幕府の攻勢で吉野が陥落すると、その後は各地を転々としています。史料も乏しく、当時の南朝の実態は長らく謎に包まれていたと言ってもいいでしょう。

しかし近年の研究で、南朝もまた朝廷の名にふさわしい実態を持っていたことが明らかになってきています。

「歌会」の政治的意味

それが伺えるのは、例えば後醍醐の皇子・宗良親王が南朝ゆかりの和歌をまとめた『新葉和歌集』です。

宗良親王(Wikipediaより)

この歌集には皇族のほか、摂関家をはじめとする多くの公家や僧侶が名を連ねており、政権を運営するに不足ない人材が備わっていたことが分かります。

また、1420首の和歌とそれが詠まれた状況を伝える詞書から、南朝も内裏や役所・関連寺院を構え、吉野陥落後も正月や七夕などの歌会はもちろん、主要な年中行事や儀式を継続していたようです。

古来、歌会というのは王権と密接な文化的装置でもありました。こうした歌会を開くことで、文化的に武家方を圧倒していることを示す政治的な目的もあったはずです。

南北朝の共存関係

現存する天皇の命令文書(綸旨)の宛先などから、南朝を支えていたのは大和・河内・和泉・紀伊などの近畿南部の武士や寺社、そして悪党と呼ばれた体制外の勢力だったことが分かっています。

後醍醐天皇が祀られている吉野神宮

このほか、伝統的に中央政府からの自立性が強い九州も、南朝の強固な地盤となりました。

これらの軍事力は、さすがに幕府には及ばなかったものの、幕府に内紛が起こったとき、反主流派が「敵の敵は味方」として南朝を頼っていたのもまた事実です。

51年には将軍尊氏自らが弟直義に対抗するため南朝の後村上天皇に降伏。翌年にかけて北朝を廃止する形で南北合体が実現しました。一時的とはいえ、南朝の京都回復は都合4度に及びました。

南朝の本拠は、1360年代には大阪湾岸の住吉大社(大阪市)にありました。歌会が特に多く催されたのはこの時期のことです。

後村上が臨席した四天王寺金堂の上棟式に幕府が馬を献上した記録もあり、南北が一定の共存関係にあったことも伺えます。

【後編】では、南北朝の関係と、合体後の動きなどを見ていきましょう。

参考資料:中央公論新社『歴史と人物20-再発見!日本史最新研究が明かす「意外な真実」』宝島社(2024/10/7)
画像:photoAC,Wikipedia

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