南北朝時代の「南朝」はただの亡命政権ではなかった!その実態と北朝との共存関係が明らかに【前編】 (1/3ページ)

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南北朝時代の「南朝」はただの亡命政権ではなかった!その実態と北朝との共存関係が明らかに【前編】

「南朝」の実態

今回は、漫画・アニメ『逃げ上手の若君』でも描かれている、南北朝時代の「南朝」の実像について前編・後編に分けて解説します。

後醍醐天皇が始めた建武の新政は、内部対立により2年余りで挫折しています。

新たな幕府樹立を目指す足利尊氏が1336年、京を制圧して光明天皇を立てると、位を追われた後醍醐は吉野(奈良県吉野町)に逃れて自分こそ正統な天皇であると主張しました。

後醍醐天皇(Wikipediaより)

ここに、およそ60年にわたる南北朝時代が始まったわけです。

ところで、足利幕府と一心同体だった京都の北朝に対し、吉野の南朝は山中に潜伏した亡命政権的なイメージがありますね。

1348年に幕府の攻勢で吉野が陥落すると、その後は各地を転々としています。史料も乏しく、当時の南朝の実態は長らく謎に包まれていたと言ってもいいでしょう。

しかし近年の研究で、南朝もまた朝廷の名にふさわしい実態を持っていたことが明らかになってきています。

「歌会」の政治的意味

それが伺えるのは、例えば後醍醐の皇子・宗良親王が南朝ゆかりの和歌をまとめた『新葉和歌集』です。

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