【大河べらぼう】登場の可能性は?山東京伝の実弟である江戸時代の戯作者・山東京山がたどった生涯

江戸のメディア王として知られる蔦重こと蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)。
多くのクリエイターを支援し、世に送り出した代表的な一人として、山東京伝(さんとう きょうでん)の名を挙げない方はいないでしょう。
そんな山東京伝には弟がおりまして、その名は山東京山(きょうざん)。果たして彼は兄に負けない活躍を見せたのか、その生涯をたどってみたいと思います。
文芸活動を理解されず?初婚の妻と離縁歌川国芳「道行 猫柳婬月影」より。戯述は京橋菴こと山東京山。
山東京山は明和6年(1769年)6月15日、江戸深川にある質屋の次男坊として誕生しました。
本名は岩瀬百樹(いわせ ももき)、山東京伝は実の兄です。成人して字を鉄梅(てつばい)、また覧山(らんざん)や涼仙(りょうせん)と号します。
幼いころから漢学や書画を学び、23歳となった寛政3年(1791年)に鵜飼家(母方の伯母)へ養子入りしました。
鵜飼助之丞(うかい すけのじょう)と名乗って篠山藩(兵庫県丹波篠山市)に仕えますが、寛政11年(1799年)に職を辞します。
宮仕えを辞めたその年から文芸活動を開始、山東京伝の弟として知られるようになっていきました。
やがて文化元年(1804)ごろに佐野東洲(さの とうしゅう)の婿養子となります。
しかし結婚生活は長く続かず、文化3年(1806年)ごろに離縁しました。佐野家では文芸活動が理解されなかったのかも知れません。
のちに田村養庵(たむら ようあん)の娘と再婚。文化4年(1807年)にデビュー作『復讐妹背山物語(あだうちいもせやまものがたり)』を刊行しました。
後に京橋へ移住し、篆刻(てんこく)と執筆活動を生業とします。
地味でも地道に、生涯160もの作品を手がける
歌川国芳「かゞ見やま 草履恥の段」より。戯述は京橋菴こと山東京山。
やがて文化13年(1816年)に兄の山東京伝が亡くなると、その遺児たちを引き取って後見人となり、兄の遺業を発展させて財を築きました。
石州流の茶匠を務めるなど活躍しますが、兄の友人である曲亭馬琴(きょくてい ばきん)との関係がこじれたと言います。
天保9年(1838年)になると剃髪したものの、最晩年まで精力的な文芸活動を行いました。
生涯で160もの作品を手がけた山東京山。その作風は家庭や世間を題材として、シンプルな教訓を描くものが多く残っています。
また娘が武家に奉公していたことから、女性の道徳が強調されました。
そして安政5年(1858年)9月24日、当時江戸でパンデミックを惹き起こしていたコレラに感染、生命を落としてしまいます。享年90歳。
山東京山の作品たち 『復讐妹背山物語』文化4年(1807年) 『昔模様娘評判記(むかしもよう むすめひょうばんき)』天保6年(1835年) 『大晦日曙草子(おおみそか あけぼのぞうし)』天保10年(1839年) 『朧月猫草帋(おぼろづき ねこのそうし)』天保13年(1842年)~嘉永2年(1849年) 『教草女房形気(おしえぐさ にょうぼうかたぎ)』弘化3年(1846年) 『歴世女装考(れきせいじょそうこう)』弘化4年(1847年) など 終わりに
兄の山東京伝と共演する可能性は?(画像:Wikipedia)
今回は山東京伝の弟・山東京山について、その生涯をたどってきました。
果たしてNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」に登場するかと言われれば……その可能性は限りなく低そうです。
兄に比べて今一つ目立ちませんが、実直な性格と地道な努力によって一定の成功を収めた人物と言えるでしょう。
もし大河ドラマに登場するなら、誰がキャスティングされるか、考えてみるのも楽しいですね。
※参考文献:
津田眞弓『山東京山年譜稿』ぺりかん社、2004年5月 『日本古典文学大辞典第3巻』岩波書店、1984年4月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan