無実ゆえの切腹!?妻子ら30余人が公開処刑、謎に包まれた戦国武将・豊臣秀次の切腹の真相

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無実ゆえの切腹!?妻子ら30余人が公開処刑、謎に包まれた戦国武将・豊臣秀次の切腹の真相

不自然な通説

豊臣政権の2代関白・豊臣秀次の切腹は紛れもない史実です。

その1週間前の文禄4年(1595年)7月8日、従者数人を連れた秀次は京都の聚楽第から南郊・伏見城に秀吉を訪ね、その足で紀伊山地の高野山に行きました。

そしてその地で剃髪した後、15日に自害したのです。

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この自害についての従来の説は、第1子の鶴松を失った秀吉が甥の秀次を養子にして関白職を譲ったものの、第2子の御拾(秀頼)が生まれたため邪魔になったのが理由だと言われてきました。それで秀次を高野山に追放し、切腹させたというものです。

豊臣秀次(Wikipediaより)

切腹の知らせを受けた政権は、秀次の悪行を各方面に伝えています。関白の職が血で汚され、朝廷も嫌悪したのでしょう。秀頼への関白継承は困難になり、政権は不安定化しました。

ただ、この説には疑問も残ります。秀次が切腹したのは高野山の青巌(金剛峯寺の前身)ですが、ここは秀吉が母・大政所の菩提を弔うために寄進した大寺院でした。そのような大切な場所で、秀吉が切腹を命じるのは不自然です。

そこで注目されるのが、これまで見過ごされてきた「秀次高野山」令です。

高野山の金堂

秀次一行が高野山へと出発した後、同22日に発給された秀吉の朱印状で、宛先は高野山の真言宗トップと高野山の全体です。これは、秀次を高野山に留め置くという軟禁の命令で、当時の写しも残っています。

一方、これまで多くの歴史学者が参照してきたのは、江戸時代初期の軍記物『甫庵太閤記』に記載された同13日付の連署状です。これは石田三成ら「五人の者」によるもので、秀次の切腹を命じる内容でした。

このどちらかを携えて、福原長堯らの使者が伏見から高野山へ向かい、彼らの到着を受けて秀次は切腹したことになります。

伏見から高野山までの距離を考えると、わずか1日の差でも、三成らの連署状が作成されるのを待っていたら秀次の切腹に間に合いません。

従って、使者らが携えたのは軟禁命令の朱印状の方だったと考えられます。切腹命令の連署状は『甫庵太閤記』にだけ出てくる史料であり、フィクションの可能性もあります。

切腹の理由

では、なぜ秀次は切腹したのでしょうか?

実は、手掛かりがあります。京都御所の湯殿で天皇に近侍する女官が交代で記した『御湯殿上日記』によると、「無実だからこのようになった」という情報が朝廷に届いていたというのです。

無実だから切腹する、というのは奇妙に感じられるかも知れません。

しかし中世には、死罪としての切腹以外に、自らの潔白を主張する究極の訴願としての切腹もありました。秀次は命をもって潔白を訴えたと考えられるのです。

秀次と秀吉の間に亀裂が入っていたのは確かで、この一連の出来事の前に石田三成らは秀次を謀反の疑いで詰問しています。

釈明のために伏見城に赴いた秀次ですが、秀吉の不機嫌な姿に接し、謝罪の意を示して自らの意志で高野山に入ったのではないかと推測する研究者もいます。

そして秀次の行動を受けて、軟禁を命ずる朱印状が追って発給された可能性があるのです。

切腹した秀次が無実だったとなると、政権の動揺は避けられません。そこで秀吉らは秀次に罪ありと宣伝して、妻子ら30人余りを公開処刑したのです。

三条河原で処刑された秀次一族の法名を記した名簿(Wikipediaより)

さらに聚楽第も破却することで事件に決着をつけた、と考えられます。

この新説は2016年のNHK大河ドラマ『真田丸』でも採用され、広く知られることとなりました。これに対する反論もありましたが、さらなる反批判により、この新説の有効性はほぼ確定したと言ってもいいでしょう。

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参考資料:中央公論新社『歴史と人物20-再発見!日本史最新研究が明かす「意外な真実」』宝島社(2024/10/7)
画像:photoAC,Wikipedia

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