なぜ少年たちは英霊のごとく“祀られた”のか?鎮魂歌『真白き富士の根』と軍国主義の影

ボート転覆
皆さんは 『真白き富士の根(もしくは嶺)』という歌をご存じでしょうか。今ではあまり耳にする機会がないかも知れませんが、かつて一世を風靡した作品で、美しいメロディーと哀調を帯びた歌詞が特徴です。
今回は、この歌の題材となった明治時代の事故について解説します。
時は1910(明治43)年1月23日のこと。神奈川県逗子開成中学校の生徒11名と、それに小学生1名の合計12名がボートに乗り込んで海へ出ました。
ボートを出すためには許可が必要でしたが、これは日曜日だったこともあり無断出艇です。彼らは江の島で鳥撃ちをしようとボートを出したのでした。

彼らは江の島へは無事に到着したものの、おそらく沖で突風にあおられたのでしょう、帰り道で転覆して全員が海に投げ出されてしまいます。
そもそも7人乗りだったボートに12人も乗っていた上に、江の島から出る際には漁師の警告も無視して海へ出たというのだから自業自得と言えるでしょう。
遭難現場と言われているのは七里ヶ浜の行合川の沖合1.5キロくらいの地点で、もともとそのあたりは気象が変わりやすく、突風も吹きやすい場所でした。
鎮魂歌の誕生彼らの遭難が判明したのは14時頃のこと。イカ釣り船が、オールに掴まっていた少年の一人を発見したのがきっかけでした。
さっそく学校・警察・それに漁師たちが総出で残りの少年たちの捜索にあたります。逗子開成中学校は海軍子弟のための学校であり、横須賀鎮守府と密接な関係があったことから、学校の要請を受けて二隻の駆逐艦「吹雪」「霰」までもが出動しています。
しかし残念ながら、最初に救助された少年も含めて全員が帰らぬ人となりました。遺体が全て発見されたのは事故発生から四日後のことでした。
この年の2月6日には中学校で追悼の式典が営まれました。式典の際、冒頭で挙げた『真白き富士の根』が鎮魂歌として披露されたといわれています。
この歌の原曲となったものは、もともとはアメリカ人ジェレマイア・インガルスがイギリスの民謡を元に編曲した鎮魂歌でした。
それが日本で、1890(明治23)年刊行の『明治唱歌』において「夢の外(ゆめのほか)」として採用され、この唱歌の替え歌として『七里ヶ浜の哀歌』が作詞されたのです。これが『真白き富士の根』として知られることになりました。
この歌はその後、歌謡曲経由でキリスト教讃美歌としても採用されました。もともと歌詞にはキリスト教の影響がみられるということで、キリスト教的なイメージともマッチしたのでしょう。1915年にはレコードも発売されています。

その後の1964(昭和39)年、有志によって『ボート遭難の碑』と記念像が建てられました。
なぜ祀り上げられたのかさて、ところでこの事故は「記念物」が多く存在します。先述した記念像や『真白き富士の根』の歌、それに事故を題材にした映画や小説も存在します。
この事故は現代の視点で見れば若者の暴走事故のようなもので、ほとんど同情の余地はありません。
ところが『真白き富士の根』の歌詞や、記念像に添えられた文言などを見ると、この事故の犠牲者の少年たちは、まるで英霊のごとく祀り上げられています。
前途ある少年たちの悲劇の死であり、中には同行した小学生の弟をしっかり抱きかかえたまま亡くなっていた少年もいたそうで、そうした点が多くの人々の同情を誘ったというのもあるでしょう。
ただ、それ以外の時代背景も見逃せません。

『真白き富士の根』が初めてレコードリリースされたのは1915(大正4)年8月のことで、これは第一次世界大戦への日本参戦からおよそ一年後の出来事でした。
また、事故を題材に、歌と同じタイトルの映画も作成されていますが、これは1935(昭和10)年のことで、五・一五事件以降、日本が軍国主義色を強めていった中での上映だったのです。
ちなみに、二・二六事件で危うく難を逃れた岡田啓介は、開成中学校の前身である共立学校に在籍していました。映画が公開された1935(昭和10)年というのは、そんな彼が首相を務めていた時期のことでもあります。
こうした時代背景から、『真白き富士の根』の普及は、第一次世界大戦や五・一五事件後のナショナリズムの高揚と時期的に重なり、軍国主義的価値観と共鳴した可能性があります。
もちろん歌自体の意図は追悼であり、ナショナリズムを直接煽るものではなかったにせよ、時代の空気の中で両者が自然に結びついた部分はあったのではないでしょうか。
また、逗子開成中学校が海軍子弟のための学校であり、海軍と密接な関係があったことも影響したのかも知れませんね。
参考資料
事故災害研究室
画像:photoAC,Wikipedia
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan