女性関係にルーズな吉宗ゆえ?将軍・徳川吉宗の”落とし子”と称した男・天一坊の野望と哀れな末路 (2/3ページ)

Japaaan

その後は母と共に江戸へ移動し、母が町人と結ばれ何不自由ない生活を送っていました。しかし、14歳の時に母が亡くなったのを契機に天一坊は出家して山伏になります。

その頃から「自分は徳川吉宗の御落胤」と名乗るようになります。このような行動を取ったのは母から聞いた話と亡き伯父から「いつか幕府から使者が来るはずだ」と言われていたことがそうさせた原因でした。

御落胤効果でいつかは大名に!!

享保13年(1728)の頃になると天一坊は南品川宿で近いうちに大名になると言いふらします。そして、それを聞いた浪人たちが天一坊の元に集まり、仕官させるために金品を貰い受けることをしていました。

このことを不審に思った浪人、本多儀左衛門は行政や裁判などを取り仕切り、警察権も統括していた関東代官の伊奈忠逵(いな-ただみち)に報告します。

忠逵は天一坊を担いでいた者たちを尋問し、このことを上司の勘定奉行、稲生正武に報告します。

そして、天一坊のことを聞いた吉宗は「この者のことを知っている」と言ったので、忠逵は天一坊を慎重に調べることにしました。

徳川吉宗/Wikipediaより

吉宗は体が丈夫で豪快な性格だったので、将軍になる前に多くの女性と関係を持ったとしても不思議ではありませんでした。このことは幕府でも承知の上だったようです。

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