朝ドラ「あんぱん」柳井寛先生(竹野内豊)のモデル・柳瀬寛の生涯 〜 惜しみない愛情がアンパンマンを育んだ! (2/3ページ)
学業においても優秀だったようで、寛は京都医学専門学校(現・京都府立医科大学)を卒業。高知県長岡郡後免町(現・南国市)で「柳瀬医院」を開業しました。
大正末から昭和初期にかけての後免町は製糸業と鉄道駅のにぎわいで成長し、彼の医院は地域医療の要となります。白衣姿の寛は常に穏やかな土佐弁で患者を励まし、「まず笑顔が薬です」と説いたと言われています。
寛は俳句を愛し、故郷の小字「朴ノ木」にちなむ俳号「朴城(ほうじょう)」を名乗りました。日が暮れると医院の待合室は文化人が集う私設サロンに早変わりし、琵琶の弦が鳴り響く空間になったいいます。
また、寛はサイドカー付きオートバイにも乗用するなど、活発な面も持ち合わせていました。
医業と趣味の二刀流は、後年やなせたかしが追求した「生活と芸術の地続き」という信条の原型になったとも考えられます。
寛はオートバイも乗る趣味人であった。写真は陸王1200VFD(1950年)。
やなせたかしの「第二の父」としての愛情順風満帆に見えた寛の人生ですが、悲しい別れもありました。
昭和5(1930)年、実弟・清が病没。寛と妻キミは2歳の柳瀬千尋を正式に養子とし、のちに崇(やなせたかし)も迎え入れました。戸籍上は「伯父と甥」ですが、寛は2人を分け隔てず育て、海辺の遠足や俳句会に連れ出しては「好きな道を歩け」と背中を押しました。