朝ドラ「あんぱん」ドキンちゃんのモデルだった!?嵩の母・登喜子(松嶋菜々子)のモデル・柳瀬登喜子の生涯
朝ドラ『あんぱん』で、特に異彩を放つキャラクターが、柳井嵩(やなせたかしがモデル)と柳井千尋の母・登喜子です。
この登喜子、モデルとなったのは、やなせたかしの母・柳瀬登喜子でした。
明治生まれの女性としては当時珍しい「母・妻・働く女」という三つの役割を渡り歩いた一個の人生記として、きわめてドラマティックな軌跡を残しました。
それでは柳瀬登喜子の激動の人生を見ていきましょう。
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成長した登喜子は、県立第一高等女学校に進学。華やかな着物を粋に着こなす姿と、生まれ持った美貌で、周囲でも一目置かれる存在でした。そのため、在学中から良縁の噂が絶えなかったと伝わります。
結局、登喜子は在学中に豪商と結婚。しかし婚家になじめず短期間で離縁し、実家へ戻ったと伝わります。この早すぎる離婚は、後年の決断力の萌芽でもありました。
しかしバツイチとなった登喜子に、運命的な出会いが訪れるのです。
1918(大正7)年、登喜子は上海帰りのエリート編集者・柳瀬清と再婚します。
翌年2月に長男の嵩(のちのやなせたかし)を出産。大正10(1921)年には次男・千尋も授かりました。
その後、登喜子たちは朝日新聞上海特派員となった清に同行して移住します。
しかし大正13(1924)年、清は赴任先の厦門で急逝。登喜子は30歳という若さで未亡人となってしまいました。
残された道は、幼子を伴って高知へ帰還するだけでした。
上海。登喜子は同地の海外特派員となった夫・清とともに赴くが…
「ずるくあれ」の教え未亡人となった登喜子は、自身の生活再建のために奮闘します。
自身と子供たちを養うために、手に職を付けるべく茶道・華道・三味線・洋裁と習い始めました。
しかし地方で女性が自活する壁は高く、苦労したと伝わります。
そんな折、登喜子は小学生の嵩に向けて「あなたは真面目すぎる。生きるにはもっとずるくならないと」と言い放ったといいます。
経済的限界の中で登喜子は再婚を決意。千尋は医師である伯父(清の兄)の養子に、嵩は同じ伯父宅の「書斎部屋」に預け、3度目の婚家へと去りました。
嵩が後年まで忘れなかった「遠ざかる母と白いパラソル」の情景は、朝ドラ『あんぱん』名場面の原型となっています。
再会と晩年、そして作品への影響
登喜子は3度目の結婚生活を送っていましたが、今度の結婚でも相手に先立たれてしまい、再び未亡人となりました。
その後、登喜子は単身で上京。世田谷の持ち家で下宿屋を営むかたわら、嵩(美術学校へ進学)の学費と住まいを支えたと伝わります。
日本が戦争に突入すると、登喜子と嵩、千尋の人生も大きく動いていきました。
登喜子は高知に疎開し、嵩と千尋は従軍。千尋は24歳という若さで戦死を遂げてしまいました。
嵩が帰還兵となると、登喜子は彼を膝枕しながら「許してね」と言って涙したと伝わります。
その後、登喜子は四度目の夫にも先立たれてしまいました。
60代となった登喜子は、再び腰を落ち着けるべく高知に帰郷。近隣の子供らに茶道や生花を教えて「お茶のおばちゃん」と親しまれました。
1967(昭和42)年、登喜子は永眠します。享年73歳でした。
息子・たかしはのちに「ドキンちゃんの外見は母に似ている」と語り、母子の複雑で強い結びつきが作品世界へ溶け込んだことを明かしています。
「お茶のおばちゃん」と呼ばれて慕われた登喜子の姿が高知に
あった。
柳瀬登喜子は「母としての献身」より「生き延びるための選択」を重ねたゆえに、時代から誤解も批判も浴びました。
しかし、豪奢な着物も白いパラソルも、生け花の稽古も、再婚も、息子への「ずるくあれ」という矛盾した励ましも――すべては〈弱さを抱えつつ凛と立つ〉ための装置だったのかもしれません。
彼女の飄然とした背中は、アンパンマンがどんな傷ついた相手にもパンを差し出す“しなやかな強さ”の源泉として、今も物語の底で輝き続けています。
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