【新選組】遺体は海中投棄…宮古湾海戦、敵に果敢に斬り込み壮絶な最期を遂げた「野村利三郎」の生涯 (3/4ページ)
大蘇芳年「勝沼駅近藤勇驍勇之図」
野村利三郎は弘化元年(1844年)、美濃国大垣藩士の家に生まれたと伝わります(諸説あり)。
本姓は源、諱(忌名)は義時。同僚と口論のすえ決闘に及び、脱藩しました。
各地を放浪した利三郎は新選組に転がり込みますが、具体的な動機については詳しく分かっていません。
利三郎の入隊は慶応3(1867)年6月以降、局長附の中にその名が見られ、局長の近藤勇(変名:大久保大和)から信頼されていました。
慶応4年(1868年)4月、下総国流山(千葉県流山市)へたどり着いた新選組が新政府軍に降伏する際には、近藤の供を務めています。
二人は捕縛され、4月25日に近藤が斬首されてしまいました。
利三郎と、別に捕らわれていた相馬主計(そうま かずえ)も続いて処刑される予定でしたが、近藤の助命嘆願によって釈放されます。
釈放から壮絶な最期まで
釈放された野村利三郎は相馬主計と共に旧幕府軍へ合流し、陸軍隊長•春日左衛門(かすが さゑもん)の指揮下に入りました。
奥羽越列藩同盟(おううえつ•れっぱんどうめい。東北及び北陸諸藩)と共に各地を転戦し、仙台で新選組の副長であった土方歳三(ひじかた としぞう)らと再会します。