なぜ太平の世・江戸時代に“鉄砲バブル”が巻き起こった!?江戸後期の武器ビジネスの実態【前編】 (2/2ページ)
さてしかし、大阪・堺は、滋賀・国友と並ぶ日本最大級の鉄砲生産地だったとされますが、ここで2014年、現存最古の鉄砲鍛冶屋敷である「井上関右衛門家住宅」で、約2万点の古文書が見つかりました。
それは18世紀後半以降の鉄砲の取引先や注文内容、原材料などが分かる類例のない文書群でした。
これを堺市と関西大が協力して分析・調査したところ、浮かび上がってきたのは、意外にも江戸後期に成長していた「鉄砲ビジネス」の実態だったのです。
新規発注が増加もともと、堺の鉄砲についての史料は多くありませんでした。
江戸前期から中期については、辛うじて堺全体の鉄砲受注数の減少を示す史料だけが存在しており、これによって江戸時代に鉄砲ビジネスは衰退したと考えられていました。
その受注数を見ると1653年が2,383丁で、これが40年後の93年には318丁に激減。さらに18世紀前半には新規の注文よりも「修理」が中心となり、取扱数は100丁前後で推移していました。
しかし、前述の井上家で見つかった1752年以降の受注記録は、別の様相を呈していました。
当初は同家だけ50丁前後だったのですが、1824年には104、1839年には284丁に増加していたのです。しかも大半を占めるのが新調の注文でした。
取引していた武家の数は1758年の19件から、1842年には61件と3倍以上に拡大。8代目・井上関右衛門はこの時期について「鉄砲師の全盛の時代」とも述懐しています。
なぜこのような変化が起きたのでしょうか。その理由は、ロシアの南下で海防の意識が高まり、生産量が増加したためと考えられています。
【後編】では、こうした調査研究の内容についてさらに詳しく解説します。
参考資料:
中央公論新社『歴史と人物20-再発見!日本史最新研究が明かす「意外な真実」』宝島社(2024/10/7)
画像:photoAC,Wikipedia
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan