実は大バクチだった!大久保利通らが仕掛けた合法クーデター「廃藩置県」の意外な実態【前編】

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実は大バクチだった!大久保利通らが仕掛けた合法クーデター「廃藩置県」の意外な実態【前編】

廃藩置県はクーデター

明治時代、全国の藩を廃して政府直轄の県とした廃藩置県(はいはんちけん)は、薩摩(鹿児島)・長州(山口)藩出身の少数の政府実力者が秘密裏に断行した一種のクーデターでした。

イメージ(Wikipediaより)

明治政府は諸藩連合政権として発足した経緯もあり、藩の存続を前提として、旧幕府領などに置いた府県と同じように統制を強める政策を進めていました。

しかしこのやり方では諸藩の意見(公議)に配慮せざるを得ず、版籍奉還などの改革は不徹底なものに終わってしまいます。

こうした状況の打開策として、政府が有力藩の軍事力による政権強化を図ったため、かえって藩に依拠した政体の限界が明らかになり、廃藩断行の誘因となったのです。

今回はそのあたりの経緯を前編・後編に分けて見ていきましょう。

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既定路線ではなかった

明治維新における最大の変革は、明治4年(1871年)7月11日に断行された廃藩置県だったと言えるでしょう。

独自の統治機構と軍事力を持っていた全国261藩が廃止されて政府直轄の県となり、旧藩主(知藩事)は職を解かれ東京転居を命じられました。

ここに天皇を中心とする中央集権体制が確立し、学制や徴兵令、地租改正といった全国均一の政策が可能になったのです。

新政府を主導する大久保利通や木戸孝允らにとって、西欧列強に対抗できる強力な近代国家を樹立することは、王政復古当初からの目標でした。

桂小五郎(のちの木戸孝允)の像

このため、今までは、廃藩は最初から政府の既定路線であったかのように考えられてきました。

しかし近年の研究では、なんと当時の7月初めまではあくまで藩の存続を前提としており、その統制を強めていく方針だったことが明らかになっています。

しかしそれでは、中央集権国家を完成させるには十分ではありませんでした。

廃藩置県とは実のところ、大久保・木戸ら少数の政権幹部が、このように混迷する政局の打開を図った一種のクーデターだったと考えられているのです。

諸藩の意向を無視できず

明治政府は、諸藩の軍事力で徳川幕府を倒しました。

とはいえ、政府はもともと天皇親政を掲げていたものの、その実態は諸藩に依拠する政権でもありました。その直轄地は、全国3000万石のうち、旧幕府領に置いた府県の800万石に限られていたのです。

政府の基本方針を表明した明治元年(慶応4年)の五箇条の誓文には、〈広く会議を興し万機公論に決すべし〉とあります。

ここで想定されていたのは藩の意思であり、これを具体化するものとして各藩代表でつくる公議所、次いで集議院が設けられていました。

独自の軍事力を持たない明治政府は、その意向を無視できなかったのです。

明治政府最大級の権力者の一人・大久保利通の像

このため、藩主の領地と領民を天皇に返上する明治2年の版籍奉還や、各藩に海軍費を負担させる翌年の藩制制定は不徹底なものに終わりました。

政府としては、非常にもどかしい思いだったでしょう。こうした状況を打破するために廃藩置県が行われた経緯を、【後編】でさらに見ていきましょう。

参考資料:中央公論新社『歴史と人物20-再発見!日本史最新研究が明かす「意外な真実」』宝島社(2024/10/7)
画像:photoAC,Wikipedia

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