実は大バクチだった!大久保利通らが仕掛けた合法クーデター「廃藩置県」の意外な実態【後編】 (2/3ページ)
これは、軍事力を背景に抵抗勢力を抑え込もうという試みでした。また、諸藩最大の常備軍を持つ薩摩にとっても、政府がその維持費を肩代わりしてくれるというメリットがありました。
ところが、こうした薩長連携は政府内外に摩擦を生みます。
中央集権化にこれまで最も抵抗してきたのは薩摩であり、改革派を自任する土佐、米沢、福井、熊本などの6藩は連携して国政参入を目指しました。
さらに政府内では5月末以降、大久保と木戸が人事や官制改革を巡って激しく対立。さらに2人の上役である岩倉具視は、薩長に有力藩を加えた「大藩同心」を画策します。大混乱です。
「瓦解せんよりは…」このような混乱の中で、7月になって長州出身の若手官僚から廃藩論が起こり、9日に木戸邸で行われた木戸・大久保・西郷らの会談で合意されます。
大久保は「廃藩」を断行する2日前である1日の日記に、〈今日のままにして瓦解せんよりは寧ろ大英断に出て瓦解いたしたらんに如かず〉と書いています。
おそらく大久保らは、藩を残したままでの中央集権化の限界を悟ったのでしょう。廃藩置県という大勝負によって、決裂しかけた政府内の結束を強めることに賭けたのです。
廃藩置県がクーデターといわれるのは、これが薩長出身者のみによる決定であり、土佐藩をはじめとする諸藩はもちろん、薩摩・長州の国元も一切関与していなかったためです。