大河「べらぼう」大田南畝らとも交流があった戯作者・雲楽山人こと長坂高景の生涯をたどる (2/3ページ)
妻との間には長坂高徳(たかのり)、長坂高好(たかよし)、長坂高常(たかつね)、女子、長坂高秀(たかひで)を授かっています。
やがて天明8年(1788年)に養父が亡くなると家督を継ぎ、実父と同じ書院番士となりました。
寛政8年(1796年)には江戸城西の丸へ移り、敏次郎(後の12代将軍•徳川家慶)に仕えます。
さらに寛政11年(1799年)、蝦夷地御用掛に任じられると高景も蝦夷地へ渡りました。
しかし享和2年(1802年)に蝦夷奉行(のち箱館奉行)が創設されると蝦夷地御用掛を免じられ、その後について詳しいことは分かっていません。
蝦夷地に骨を埋めたのか、それとも江戸へ戻ってきたのでしょうか。
戯作者•狂歌師としても活躍
そんな長坂高景は、文筆家としても活躍。雲楽山人(うんらくさんじん)と号して、天明元年(1781年)から天明5年(1785年)ごろにかけて活動しました。
雲楽山人の作品には『無陀物語(むだものがたり)』『鯉池全盛噺(こいのいけぜんせいばなし)』『傾城知恵鑑(けいせいちえかがみ)』『契情手管智恵鏡(けいせいてくだちえかがみ)』などが世に出ています。
無駄・恋・傾城(契情)・手管……よほど女遊びが好きで、その知見を作品に盛り込んだのでしょう。
狂歌も詠んだようで、雲楽斎(うんらくさい)とも号しました。
また交友関係も広く、『愚人贅漢居続借金(ぐにんおとこいつづけかりがね。