大河「べらぼう」大田南畝らとも交流があった戯作者・雲楽山人こと長坂高景の生涯をたどる

蝦夷地を上知(あげち。所領を召し上げ)すれば、幕府が潤う。そんな思惑から、江戸時代も中期から後期に入ると、俄かに蝦夷地が熱視線を浴びるようになりました。
多くの者が蝦夷地へ渡る中、この男も新天地を目指します。
彼こそは長坂高景(ながさか たかかげ)。果たしてどんな人物だったのか、その生涯をたどってみましょう。
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長坂高景は宝暦11年(1761年)、朝倉景保(あさくら かげやす)の五男として誕生しました。
朝倉家は戦国大名の末裔で、当家は書院番士(将軍の親衛隊)を務める一千石どりの名門です。
元服して朝倉源之助(げんのすけ)または朝倉忠七郎(ちゅうしちろう)と名乗り、やがて長坂高美(たかよし)の婿養子となりました。
長坂家は家禄百五十俵、高美は右筆組頭を務める能吏です。
妻との間には長坂高徳(たかのり)、長坂高好(たかよし)、長坂高常(たかつね)、女子、長坂高秀(たかひで)を授かっています。
やがて天明8年(1788年)に養父が亡くなると家督を継ぎ、実父と同じ書院番士となりました。
寛政8年(1796年)には江戸城西の丸へ移り、敏次郎(後の12代将軍•徳川家慶)に仕えます。
さらに寛政11年(1799年)、蝦夷地御用掛に任じられると高景も蝦夷地へ渡りました。
しかし享和2年(1802年)に蝦夷奉行(のち箱館奉行)が創設されると蝦夷地御用掛を免じられ、その後について詳しいことは分かっていません。
蝦夷地に骨を埋めたのか、それとも江戸へ戻ってきたのでしょうか。
戯作者•狂歌師としても活躍
そんな長坂高景は、文筆家としても活躍。雲楽山人(うんらくさんじん)と号して、天明元年(1781年)から天明5年(1785年)ごろにかけて活動しました。
雲楽山人の作品には『無陀物語(むだものがたり)』『鯉池全盛噺(こいのいけぜんせいばなし)』『傾城知恵鑑(けいせいちえかがみ)』『契情手管智恵鏡(けいせいてくだちえかがみ)』などが世に出ています。
無駄・恋・傾城(契情)・手管……よほど女遊びが好きで、その知見を作品に盛り込んだのでしょう。
狂歌も詠んだようで、雲楽斎(うんらくさい)とも号しました。
また交友関係も広く、『愚人贅漢居続借金(ぐにんおとこいつづけかりがね。蓬萊山人帰橋)』では朱楽菅江(あけら かんこう)・志水燕十(しみず えんじゅう)・蓬萊山人帰橋(ほうらいさんじん ききょう)・四方赤良(よもの あから)などと遊ぶ様子が描かれています。
雲楽山人の作品が大河ドラマでも言及されるか、楽しみですね。
長坂高景(雲楽山人)基本データ
蓬莱山人帰橋『愚人贅漢居続借金』より、四方赤良(中央)らと交流する雲楽山人(左から二番目か?)。
生没:宝暦11年(1761年)生~没年不詳 通称:源之助、中七郎 身分:武士 職業:旗本、戯作者(雲楽山人)、狂歌師(雲楽斎) 家禄:150俵 役職:書院番士、蝦夷地御用掛 父親:朝倉景保、長坂高美(舅) 子女:長坂高徳、長坂高好、長坂高常、女子、長坂高秀 作品:『無陀物語』『鯉池全盛噺』『傾城知恵鑑』『契情手管智恵鏡』など 終わりに今回は蝦夷地へ渡った旗本・長坂高景について、その生涯をたどってきました。
もし彼が大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」に登場するなら、戯作者・雲楽山人としてか、あるいは作品だけが言及される形となるでしょう。
現代かそれ以上に文学熱が沸き立った時代を彩る一人として、その活躍を期待しています。
※参考文献:
『洒落本大成 第11巻』中央公論社、1981年1月 『洒落本大成 第12巻』中央公論社、1981年4月 『寛政重修諸家譜 第四輯』国立国会図書館デジタルコレクション 『寛政重修諸家譜 第七輯』国立国会図書館デジタルコレクション日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan