日本最古の悲恋・十市皇女と高市皇子の純愛をさまざまな角度から考察!幼馴染みから政治の犠牲に…【中編】
今回は3回にわたり奈良市高畑の比賣神社に祀られている飛鳥時代の皇女・十市皇女と、彼女へのひたむきな純愛を貫いた高市皇子について紹介します。
2人は天智天皇から大化の改新事業を引き継ぎ、律令国家としての日本を完成させた天武天皇の長女と長男でした。
2回目の【中編】は、壬申の乱後に飛鳥に戻った十市皇女の動向とその死。そして、彼女に捧げた高市皇子の挽歌についてお話ししましょう。
【前編】の記事はこちら
幼馴染みから政治の犠牲に…日本最古の悲恋・十市皇女と高市皇子の純愛をさまざまな角度から考察【前編】 失意と傷心の中で訪れた突然の死大友皇子の自決後、飛鳥に戻った十市皇女ですが、彼女の浄御原宮での動静はあまり記録に残っていません。ただ、『日本書紀』の675(天武4)年2月には、天智天皇の娘で、草壁皇子の正妃である阿閇皇女(あへのひめみこ)とともに、伊勢神宮へ参拝したとの記録があります。
この時、定説通りなら十市は27歳。阿閇は15歳で、伊勢神宮に斎宮として赴任している妹の大伯皇女(大津皇子の同母姉)も15歳でした。
「河上の ゆつ岩群に 草むさず 常にもがもな 常処女にて」(万葉集 巻第1-22)
これは伊勢参拝の時、十市に仕えていた女官の吹黄刀自(ふふきのとじ)が、十市のことを詠んだ歌です。
その意味は、「川の畔の神聖な岩にいつまでも苔が生えないように、わが姫君も、その岩のように変わらず、永久に美しい乙女でいらっしゃってほしい」となります。
27歳といえば、現代ではまだまだ若く感じられますが、平均寿命が30歳に届くかどうかという飛鳥・奈良時代では、決して若くはない年齢なのです。そして皇子を一人出産している十市に対し「永久に美しい“乙女”でいらっしゃってほしい」と述べています。
この歌からは、十市の容姿がただ美しいだけではなく、乙女のような親しみがあり、誰からも愛されるべき人柄であったことが読みとれます。吹黄は、この悲運な皇女の身の上に同情するだけでなく、普段から溢れんばかりの思いやりをもって接していたのでしょう。
十市が幼少の頃から、彼女を溺愛していたといわれる天武ですが、機会があれば再婚をすすめていたのかもしれません。ただ、そのような記録がないところをみると、十市には誰にも嫁ぐ意志はなかったのでしょう。
だからこの伊勢参拝は天武の代参という形をとりながら、天武が十市の傷心を癒すためのものと考えて間違いないでしょう。この時、十市は妹で斎王の大伯と心ゆくまで語りあったと思われます。
そして、その3年後の678(天武7)年4月7日の朝、十市は突然この世を去ります。『日本書記』には「十市皇女、卒然に病発して、宮中に薨せぬ」とだけ記されています。
この日、天武は百官を引き連れて、倉橋河の河上に建てた斎宮に出向く日でしたが、十市の死を受けて行幸と斎宮での祭祀を急遽中止しました。そして、彼は、愛娘の死に号泣したと伝わります。そして十市の亡骸は、4月14日に大和の赤穂(あかほ)の地に葬られたのです。
かつての敵将であり弟である高市の挽歌十市皇女の死に際し、号泣したという天武天皇のほかにも、彼女の死を深く悼んだ人物がいました。それが、天武天皇の長子である高市皇子です。
壬申の乱では、天武軍の最高軍事司令官として重要な役割を果たした高市ですが、天武朝においては、草壁皇子・大津皇子に次ぐ第三位の序列に甘んじていました。
そんな高市の詠んだ歌は『万葉集』に、3首収録されていますが、実はその全てが十市への挽歌なのです。先ずはその3首を紹介しましょう。
「みもろの神の 神杉已具耳矣自得見監乍共 寝ぬ夜ぞ多き」(巻第2-156)
「三輪山の 山辺まそ木綿 短木綿 かくのみゆゑに 長くと思ひき」(巻第2-157)
「山吹の 立ちよそひたる山清水 汲みに行かめど 道の知らなく」(巻第2-158)
「みもろ之…………」の歌の意味は、「あの三輪の神杉のように手を触れることもなく、いとしく思う姫にせめて夢で逢いたいと思い、眠れぬ夜を多く過ごしてきた。」
「三輪山の…………」の歌の意味は、「三輪山に捧げる麻の木綿、その短い木綿のように貴女の命は短いものだったのか。私は貴女の命はもっともっと長いと思っていた。」
「山吹の…………」の歌の意味は、「山吹の花が咲きにおう山へ貴女の命を蘇らせるという清水を汲みに行きたいと思うけど、どう行ってよいのか、私にはその道がわからない。」となります。
この3首には、高市皇子の十市皇女に対する深い愛情があふれています。そこから、十市は高市と結婚していたのではないかという推測も生まれました。しかし、高市には、天智天皇の皇女である御名部皇女(みなべのひめみこ)という正妃がいて、二人の間には、聖武朝初期に左大臣として朝廷を主宰した長屋王が生まれました。
また、高市皇子の宮には、十市の妹である但馬皇女が同居していたことから、彼女とも恋仲であったという説もあります。その但馬皇女は、高市の弟・穂積皇子との熱烈な恋愛スキャンダルを引き起こしています。
一部の学説では、高市・十市・穂積・但馬という異母兄妹たちが入り乱れ、まるで恋愛サロンのような関係を築いていたとされています。これを、古代における恋愛観の大らかさの表れと見る研究者も多いようですが、果たして本当にそう言えるでしょうか。
繰り返しますが、高市皇子は壬申の乱における最大の功労者であり、乱に勝利できたのは、彼の卓越した軍事的指導力によるところが大きかったのです。しかし、高市は母親の身分が低かったため、皇位継承の上位に立つことはできませんでした。
そのような高市の境遇は、十市の亡夫・大友と非常によく似ています。二人とも天皇の第一皇子として生まれ、並外れた才知を持ちながらも、母の身分の低さゆえに、容易には皇位に就けなかったのです。それでも大友は、皇位継承を目指して朝廷の運営に乗り出しました。しかしその反動は大きく、最終的には身を滅ぼすこととなってしまいました。
自らの手で滅亡へと追い込んだ大友の運命を目の当たりにした高市は、皇位継承への望みをきっぱりと捨てたのではないでしょうか。だからこそ、第一皇子でありながら父の臣下として隠忍自重し、天武の没後には持統からも信頼を寄せられる存在となります。
そしてその政権下では、朝廷の首班たる太政大臣に任じられ、薨御に至るまで皇族・臣下の頂点に立って、持統天皇を支え続けました。
彼の脳裏に常にあったのは、姉・十市に対する自責の念と深い憐憫の情であったと思われます。どのような言い訳をしたとしても、高市は十市にとって最愛の夫を死に追いやった張本人にほかならなかったのです。
飛鳥に戻った十市に対し、高市は単なる恋愛感情を超えた深い想いを抱くようになります。そんな高市に、十市もまた心惹かれるものがあったのでしょう。
しかし、彼女はその想いを懸命に抑えたのではないでしょうか。そしていつしか、高市と十市の間には、苛烈な戦乱を生き抜いた者にしか共有し得ない、深い感情の交差が生まれたに違いありません。
高市の十市への挽歌からは、姉の人生を不幸に貶めてしまったことに対する、彼自身のこの上ない痛恨の情が読み取れるのです。
では【中編】はここまでとしましょう。最終回の【後編】では、2人が永遠の眠りにつく奥津城についてお話ししましょう。
※参考文献
板野博行著 『眠れないほどおもしろい 万葉集』王様文庫 2020年1月
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