日本最古の悲恋!十市皇女と高市皇子の純愛をさまざまな角度から考察〜幼馴染みから政治の犠牲に【後編】

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日本最古の悲恋!十市皇女と高市皇子の純愛をさまざまな角度から考察〜幼馴染みから政治の犠牲に【後編】

今回は3回にわたり奈良市高畑の比賣神社に祀られている飛鳥時代の皇女・十市皇女と、彼女へのひたむきな純愛を貫いた高市皇子について紹介します。

2人は天智天皇から大化の改新事業を引き継ぎ、律令国家としての日本を完成させた天武天皇の長女と長男でした。

しかし壬申の乱では、皮肉にも敵味方に別れ戦うことになってしまいます。

最終回となる[後編]では、2人が眠ると推測されるそれぞれの墳墓についてお話ししましょう。

※【前編】【中編】の記事はこちら

幼馴染みから政治の犠牲に…日本最古の悲恋・十市皇女と高市皇子の純愛をさまざまな角度から考察【前編】

日本最古の悲恋・十市皇女と高市皇子の純愛をさまざまな角度から考察!幼馴染みから政治の犠牲に…【中編】

奈良高畑に残る十市皇女の墳墓伝承地

今回は、天武天皇の長女・十市皇女と長男・高市皇子の純愛についてお話ししました。最後に、2人が眠るとされる奥津城(墳墓)を紹介し、本稿のまとめとしたいと思います。

比賣神社(撮影:高野晃彰)

記事の冒頭でも触れたように、十市皇女の墳墓として有力視されているのが、新薬師寺に隣接する比賣神社です。ここにはもともと「比賣塚」と呼ばれる古墳があり、地元では高貴な姫君の墓であるという伝承が残っていました。

また、『日本書紀』に十市皇女が埋葬された地とされる「赤穂」の候補地として近隣の赤穂神社が挙げられることからも、「比賣塚」が十市皇女の墓所である可能性が高いとされ、1981年(昭和56年)、地元住民の尽力によって比賣神社が創建されたのです。

南都鏡神社(撮影:高野晃彰)

比賣神社は、新薬師寺の鎮守社である南都鏡神社(なんとかがみじんじゃ)の摂社とされています。同神社の祭神は藤原広嗣ですが、十市皇女の母・額田王の父は、宣化天皇系の皇族・鏡王(かがみのおお)であるため、ここに何らかの関係性があるのではと興味を惹かれます。

このほか、奈良県広瀬郡(現・奈良県北葛城郡広陵町)に「赤部(あかべ)」という地名があり、この周辺に十市皇女の墓があるとする説も存在します。

天武持統合葬陵(撮影:高野晃彰)

また、彼女の父である天武天皇の陵墓・野口王墓から、高松塚古墳やキトラ古墳、さらにその西に広がるマルコ山古墳や束明神古墳までを含む檜隈(ひのくま)には、大内・安古(おおうち・あこ)と呼ばれる一帯があり、ここを天武系皇族の墳墓地とする見解があり、この地に十市皇女の墓があると推定する説も注目されています。

檜前の風景(撮影:高野晃彰)

檜前は、古来より渡来人である東漢氏(やまとのあやうじ)の本拠地であり、おそらく大化の改新以降には、大王家の墓域、いわゆる「聖なるライン(ゾーン)」となりました。したがって、天武天皇の長女である十市の墓がこの地にあったとしても、何ら不思議ではありません。

ただ、どこか控えめな印象を受ける比賣神社は、のちに弘文天皇の漢風諡号を贈られ第39代天皇とされた大友皇子の正妃でありながら、歴史の狭間に消えていった十市の奥津城として、ふさわしい場所であると訪れるたびに筆者は感じてしまうのです。

高市皇子の墳墓と推定するマルコ山古墳

一方、高市皇子は、十市皇女が亡くなってから18年後の696年(持統天皇10年)に薨去しました。この間、高市皇子にはさまざまな出来事が起こっています。

まず、679年(天武天皇8年)5月6日には、天武天皇主導のもとで「吉野の盟約」として知られる重要な儀式が行われました。これは、天武天皇をはじめ、皇后(鸕野讃良皇女)、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、川島皇子、忍壁皇子、志貴皇子らが吉野の宮滝に集い、互いに助け合うことを誓い合ったものです。この盟約によって、草壁・大津・高市の三皇子による皇位継承の序列が確定したとされています。

吉野盟約が行われた宮滝(撮影:高野晃彰)

「吉野の盟約」は、壬申の乱を経験した天武が、自らの死後に皇位継承をめぐる争いが再び起こることを恐れたために行われたと解釈されています。しかし実際には、天武朝の政治において重要な役割を果たしつつあった皇后・鸕野讃良の意向が大きく働いていたと考えるのが妥当でしょう。すなわち、彼女は天武が生前のうちに、自らが産んだ草壁皇子の皇太子としての地位を確固たるものにしようと画策していたのです。

持統天皇(Wikipedia)

686(天武15)年、天武天皇が崩御すると、まもなく皇位継承2番目であった大津皇子が謀反の嫌疑で死に追いやられます。ところがその3年後に、今度は草壁皇子が病気により薨去してしまいました。

草壁は、天武の2年3ヶ月にもわたる殯(もがり)の期間、たびたび皇族・官人を率いて一連の葬礼を指揮し、着々と皇位にむけてその存在を印象付けていたのです。草壁の死に鸕野讃良は嘆き悲しんだに違いありません。彼女は、草壁の子である軽皇子(文武天皇)の皇位継承を望みますが、7歳と幼かった軽を皇太子に立てることはできませんでした。

そこで、皇后は天皇に即位して持統天皇となり、孫の軽が皇太子となれる年齢に達するのを待ったのです。このとき、その中継ぎとして高市を皇太子待遇の太政大臣に任じ、幼い軽の後見をさせたと筆者は考えます。

藤原京大極殿跡(Wikipedia)

高市はそのような持統の期待によく応え、皇位への執着をみせることなく政務に励みました。彼は、明日香浄御原令の制定や藤原京の造営などの事業において中心人物として功績を重ねていきました。しかし、696年(持統天皇10年)に42歳で亡くなります。

彼の死後、すでに50歳を超えていた持統の後継問題が、皇族や官人たちの間で議論されました。このとき、葛野王が草壁皇子の直系による継承の正当性を述べ、その発言が決め手となり、翌年に軽皇子が皇太子となったと記録に残っています。この葛野王こそが、十市皇女と大友皇子の一人息子でした。

葛野王(Wikipedia)

おそらく高市は十市の薨御後、何かと葛野王のことを気にかけていたに違いありません。それは、十市や但馬皇女など天武の子女たちを保護していたのと同様に、もし自分の身に何かあったとき、葛野王が持統のもとで生きていくための道筋を語っていたのではないでしょうか。

高市皇子の墓は、『延喜式』諸陵によれば「三立岡墓」であり、大和国広瀬郡に所在するとされています。しかし、その周辺には、太政大臣という高位の皇族にふさわしい終末期古墳は確認されていません。

そこで筆者は、「三立岡墓」は高市の初葬墓であり、その後、檜前の聖なるゾーンへ改葬されたのではないかと考えます。

持統天皇は、高市皇子および葛野王の尽力により、紆余曲折はあったものの、念願であった草壁皇統の確立を果たしました。中でも高市皇子に対する感謝の念は、特に深かったのではないでしょうか。

軽皇子・文武天皇(Wikipedia)

そのような高市にふさわしい墳墓は、天皇の墳墓に次ぐものでなければならないでしょう。

飛鳥時代中頃から、天皇墓には八角形墳が採用されます。それが、第34代舒明天皇陵(段ノ塚古墳)、第35・36代皇極・斉明天皇陵(牽牛子塚古墳)、第38代天智天皇陵(御廟野古墳)、第40・41代天武・持統天皇合葬陵(野口大墓古墳)、第42代文武天皇陵(中尾山古墳)です。

しかし、天皇位に就くことはなかったものの、この八角形墳に眠る人物がいます。それが草壁皇子で、聖なるゾーンの南西にある束明神古墳がその真陵と考えられています。

束明神古墳(撮影:高野晃彰)

その北東の方角数100mの場所に変わった形の古墳が存在します。それが日本で数例しかない六角形を成しているマルコ山古墳です。

発掘調査によると、墳丘の中央部には天井・四壁・床面ともに全面に白く漆喰が塗られた横口石槨があり、盗掘はされているものの漆塗木棺の破片、金銅製太刀金具などが見つかっています。

マルコ山古墳(撮影:高野晃彰)

埋葬施設や副葬品などをみると同じ聖なるゾーンに存在し、壁画古墳として有名なキトラ古墳、高松塚古墳と非常によく似ており、どの古墳も天武あるいは天智の皇子クラスの被葬者が想定され、しかもこの3つの古墳は連続して造られた可能性が高いと考えられているのです。

ちなみに墳丘の大きさは、マルコ山が約24m、高松塚が約20m、キトラが約14mで、同時期に築造された古墳であれば、その規模は通常、被葬者の地位や功績に相応しいものとなります。すなわち、規模の順に被葬者を考えると、マルコ山古墳→高松塚古墳→キトラ古墳の順番となるのです。

高松塚古墳(撮影:高野晃彰)

草壁皇子は皇太子の地位で薨御しましたが、実質上は天皇と見なされ八角形墳に葬られました。これは間違いなく、持統天皇の強い意思の表われでしょう。

そして、マルコ山古墳が天皇墓の八角形に準じる六角形をなすのは、持統による被葬者への評価がこの墳形に反映しているものとも想定されます。

そうなると草壁が永眠する束明神古墳の北に築造されたマルコ山古墳は、持統の期待によく応え、その政権に貢献した高市皇子の奥津城と推定できるのです。

マルコ山古墳から発見された人骨は30~40歳の壮年男子と推測されます。これは高市の没年齢42歳とほぼ一致します。

また、マルコ山古墳の漆喰で白く塗られた石室には、高松塚やキトラのような壁画は描かれていませんでした。なぜ、マルコ山にだけ壁画が描かれなかったのは謎とされています。

キトラ古墳の壁画イメージ(撮影:高野晃彰)

しかしどうでしょう。真っ白な空間の中で永遠の眠りにつく高市皇子の姿を想像してみてください。この純白な空間こそ、高市の人柄に相応しい奥津城と思いませんか。

インバウンドを始め多くの観光客で賑わう奈良県ですが、十市皇女が眠る比賣神社も、高市皇子が眠るマルコ山古墳も、訪れる観光客はほとんどいません。

それだけに、そこに佇めば心静かに純愛を貫いた2人の皇女・皇子に思いを馳せることができます。

奈良県に出向いた時は、ぜひ2人の面影を偲びつつ、高畑と少し距離はありますが飛鳥に出向いて2人の奥津城に手を合わせていただければと願います。

※参考文献
板野博行著 『眠れないほどおもしろい 万葉集』王様文庫 2020年1月

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