大河「べらぼう」寛政の改革に抵抗!田沼意次を陰で支えた盟友・松平康福(相島一之)の生涯 (2/3ページ)
【松平康福・略系図】
……源為義?-松井維義(これよし)-松井季義-松井為維(ためこれ)-松井忠直-松平康親(松井忠次)-松平康重-松平康映(やすてる)-松平康官(やすのり)-松平康員(やすかず)=松平康豊-松平康福=松平康定……
※『系図纂要』『寛政重脩諸家譜』などより。
幼名は団之助(だんのすけ)、姉妹には内藤頼由(よりよし)正室がいます。やがて元服して通称を弥三郎と名乗りました。
享保21年(1736年)に18歳で家督を相続して、時の第8代将軍・徳川吉宗に御目見。同年に従五位下・周防守となります。
それから寛延2年(1749年)に奏者番(そうじゃばん。将軍の取り次ぎ役)、宝暦9年(1759年)には寺社奉行を兼任。同年に古河藩へ転封(領地替え)となりました。
翌宝暦10年(1760年)には大坂城代を任じられ、同年従四位下へ昇叙。宝暦12年(1762年)9月には三河岡崎藩へ転封、同年12月に江戸城西ノ丸老中と、目まぐるしく変わります。
宝暦13年(1763年)に老中格、宝暦14年(1764年)に老中と順調に昇進。明和6年(1769年)には故郷の浜田藩へ返り咲く形で転封されました。
天明元年(1781年)に老中首座の松平輝高(てるたか)が在任中に卒去したことから、その後任として老中首座となります。
しかし勝手掛(かってがかり。財政担当)については田沼意次の意向により、同輩の水野忠友(ただとも)が任じられました。
これまでは勝手掛は老中首座が兼務するのが慣例だったのに、康福としては不満だったことでしょう。
ともあれ40数年の道程を経て老中首座についた松平康福。この辺りが人生の頂点だったのかも知れません。
天明4年(1784年)には娘婿であった田沼意知(意次の嫡男)が佐野政言(まさこと)に斬られて死亡する事件が発生しました。
天明5年(1785年)には勝手掛の埋め合わせとばかり一万石の加増はあったものの、天明6年(1786年)に徳川家治が世を去り、頼みの田沼意次が失脚してしまいます。