大河「べらぼう」寛政の改革に抵抗!田沼意次を陰で支えた盟友・松平康福(相島一之)の生涯

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大河「べらぼう」寛政の改革に抵抗!田沼意次を陰で支えた盟友・松平康福(相島一之)の生涯

◆松平康福/相島一之
まつだいら・やすよし/あいじま・かずゆき

田沼の外戚の老中
石見国浜田藩主、下総国古河藩主、三河国岡崎藩主、そして浜田藩主とたびたび国替えを経験。娘を意知(宮沢氷魚)に嫁がせ、田沼意次(渡辺 謙)とは親戚関係となる。意次の失脚後も松平定信の老中就任や寛政の改革に最後まで反対したといわれる。

※NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式サイトより。

物語の序盤から登場し、幕閣の一人として政治を担い続けた松平康福。果たして彼はどのような生涯をたどったのでしょうか。

老中首座まで上り詰めるが……

幕閣らの中で、控えめな存在感を放つ松平康福。NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式サイトより。

松平康福は享保4年(1719年)、石見国浜田藩主・松平康豊(やすとよ)の嫡男として誕生しました。

【松平康福・略系図】

……源為義?-松井維義(これよし)-松井季義-松井為維(ためこれ)-松井忠直-松平康親(松井忠次)-松平康重-松平康映(やすてる)-松平康官(やすのり)-松平康員(やすかず)=松平康豊-松平康福=松平康定……

※『系図纂要』『寛政重脩諸家譜』などより。

幼名は団之助(だんのすけ)、姉妹には内藤頼由(よりよし)正室がいます。やがて元服して通称を弥三郎と名乗りました。

享保21年(1736年)に18歳で家督を相続して、時の第8代将軍・徳川吉宗に御目見。同年に従五位下・周防守となります。

それから寛延2年(1749年)に奏者番(そうじゃばん。将軍の取り次ぎ役)、宝暦9年(1759年)には寺社奉行を兼任。同年に古河藩へ転封(領地替え)となりました。

翌宝暦10年(1760年)には大坂城代を任じられ、同年従四位下へ昇叙。宝暦12年(1762年)9月には三河岡崎藩へ転封、同年12月に江戸城西ノ丸老中と、目まぐるしく変わります。

宝暦13年(1763年)に老中格、宝暦14年(1764年)に老中と順調に昇進。明和6年(1769年)には故郷の浜田藩へ返り咲く形で転封されました。

天明元年(1781年)に老中首座の松平輝高(てるたか)が在任中に卒去したことから、その後任として老中首座となります。

しかし勝手掛(かってがかり。財政担当)については田沼意次の意向により、同輩の水野忠友(ただとも)が任じられました。

これまでは勝手掛は老中首座が兼務するのが慣例だったのに、康福としては不満だったことでしょう。

ともあれ40数年の道程を経て老中首座についた松平康福。この辺りが人生の頂点だったのかも知れません。

天明4年(1784年)には娘婿であった田沼意知(意次の嫡男)が佐野政言(まさこと)に斬られて死亡する事件が発生しました。

天明5年(1785年)には勝手掛の埋め合わせとばかり一万石の加増はあったものの、天明6年(1786年)に徳川家治が世を去り、頼みの田沼意次が失脚してしまいます。

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翌天明7年(1787年)に徳川家斉(いえなり。家治の養子で一橋治済の子)が第11代将軍となるや、逆風は一気に加速しました。

御三卿(一橋家・田安家・清水家)が推していた松平定信の老中就任や、いわゆる寛政の改革に最後まで反対したものの、天明8年(1788年)に老中を免職。帝鑑間詰(ていかんのまづめ)に降格されてしまいます。

間もなく養子の松平康定(やすさだ。従弟)に家督を譲って隠居した康福は、翌寛政元年(1789年)2月8日に71歳で卒去したのでした。

終わりに

相島一之が演じる松平康福。NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式サイトより。

今回は、徳川吉宗から徳川家斉まで4代将軍に仕えた松平康福について、その生涯をたどってきました。

劇中ではあまり目立った活躍はないものの、田沼政権を支える盟友の一人として、重要な役割を担っていたようです。

果たして松平定信や一橋治済らを前に、どのような抵抗が描かれるのでしょうか。相島一之の好演に期待しています。

※参考文献:

長谷川強 校註『耳嚢』岩波文庫、1991年2月 早川和見『シリーズ藩物語 古河藩』現代書館、2011年2月

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