戦国時代、バテレン追放令の波に翻弄された「天正遣欧少年使節」4人の少年たちのその後の運命 (4/5ページ)
伊東マンショ/Wikipediaより
その後は細川忠興が治める豊前国小倉で活動をしています。しかし、江戸幕府が禁教の流れとなっていくと、忠興は慶長16年(1611)にマンショを追放しました。
マンショは長崎に拠点を移し活動していましたが、翌年に病死しました。
細川忠興/Wikipediaより
禁教の流れに翻弄された原マルティノと中浦ジュリアン
司祭となりマンショは小倉で活動する中、原マルティノはラテン語が堪能だったので西洋書の翻訳や出版を布教活動と二足の草鞋で行っていました。また、中浦ジュリアンは博多で活動をしていました。
しかし、慶長19年(1614)に江戸幕府が禁教令を発布し、本格的にキリスト教弾圧を始めるとマルティノはマカオへ追放されます。
マカオの地でも出版活動をし続けながら、マルティノは寛永6年(1629)に亡くなりました。