家督を継げない少年だった足利尊氏、なぜ幕府を倒す大逆転劇を起こせたのか? (2/3ページ)
足利家では、北条家の娘を正室に迎えるのが習わしとなっており、その正室との間に生まれた男子こそが家の跡を継ぐとされていました。しかし、尊氏の母・上杉清子)(きよこ)は、正室ではなく家女房、つまり側室にあたる存在でした。
このような状況の中で、尊氏には正妻の子として生まれた異母兄・高義がいました。高義は北条氏の血を引き、家督を継ぐ嫡男として育てられていました。実際、彼は十九歳の時に正式に家督を譲られています。しかし、そのわずか一年後に病でこの世を去ることとなります。
普通であれば次の男子が家を継ぐ流れになりますが、尊氏の場合はそうはなりませんでした。父・貞氏はその後もしばらく自ら家を管理し、尊氏をすぐに当主とはしませんでした。尊氏が元服した際の通称は「又太郎」とされており、これは足利家の嫡男が代々名乗る「三郎」ではありません。この点からも、当時の尊氏が家督継承者とは見なされていなかったことがうかがえます。
さらに、尊氏は十代のころ、家臣筋にあたる加古基氏の娘との間に子どもをもうけています。その長男・竹若はのちに戦死しますが、この婚姻関係からも、尊氏の地位が当初は高くなかったことが読み取れます。
ところが、時代の流れとともに尊氏の立場にも変化が起きていきます。
十五歳の時、彼は朝廷から特別な待遇で位階を授けられます。この昇進は、北条氏の中でも上位の家柄と肩を並べるほどのものでした。やがて、尊氏は赤橋守時の妹である登子(とうし / なりこ)を正室として迎えることになります。赤橋氏は北条家の有力な分家で、守時自身も後に幕府の執権となる人物です。こうして尊氏は、ようやく足利家の正統な後継者としての地位を固めていきました。
1331年、父・貞氏の死去により、尊氏は二十六歳で家の当主となります。その頃、朝廷では後醍醐天皇が幕府に対して兵を挙げていました。天皇は最初に笠置山に立てこもって挙兵しますが敗北し、隠岐の島へと流されてしまいます。