坂本龍馬を救った剣豪・三吉慎蔵。寺田屋事件で見せた忠義と、その知られざる生涯とは?

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坂本龍馬を救った剣豪・三吉慎蔵。寺田屋事件で見せた忠義と、その知られざる生涯とは?

土佐脱藩浪士として有名な坂本龍馬には政敵が多かった。そんな中、龍馬の信頼を得て命を救う活躍を見せた男がいた。長府藩士「三吉慎蔵(みよししんぞう)」

今回は、一流の槍術使いであり、龍馬の護衛役を努めた男の活躍を振り返る。

三吉慎蔵(Wikipediaより)

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出生から長府藩士まで

1831年。長府藩(現在の山口県長府に存在した藩。長州藩の支藩)の剣術師範であった小坂土佐九郎の次男として生まれる。実名は「時治」。

1849年。長州藩の学校である明倫館に入学し宝蔵院流槍術に出会う。1855年には長州藩師範・小幡源右衛門より免許皆伝を受けている。「慎蔵」という名はこの時送られたものであると考えられている。1857年、長府藩士「三吉十蔵」の養子となり「三吉慎蔵」となった。

1857年には長府藩藩主「毛利元周(もうりもとちか)」に随従して江戸へ。洋学を導入し、海防の知識に明るかった江川太郎左衛門から西洋の砲術を学んだとされる。

1863年に下関で起こった長州藩と列強四国の武力衝突事件をきっかけに、国防を目的として結成された精鋭隊の監督職を任されている。

坂本龍馬との出会い

1866年。土佐藩脱藩浪士となっていた「坂本龍馬」と出会う

慎蔵と盟友関係を築いた土佐脱藩浪士「坂本龍馬」(Wikipediaより)

二人を引き合わせたのは慎蔵と同じ長府藩士であり、藩主・毛利元周の側近として活動していた「印藤聿(のぶる)」だった。この人物は長府藩で海防に携わる仕事を任されており、龍馬と長府藩を繋ぐ役目を果たしていたと考えれれている。印藤の紹介によって知り合った慎蔵と龍馬は後に盟友となる。

同年、長府藩より京都の情勢を探る任を受けた慎蔵は龍馬と共に下関を発った。この時の慎蔵に龍馬の護衛任務はなかったとされ、あくまでも藩命による情報収集が目的であった。

当時の龍馬は、薩摩藩と長州藩の軍事的同盟である「薩長同盟」締結に尽力しており、京都・伏見にある「寺田屋」に宿泊する手筈となっていた。

後にこの寺田屋で、慎蔵と龍馬の絆を深めることになる事件が勃発する。

長府藩出身で一流の槍術使いとして藩命を全うした「三吉慎蔵(みよししんぞう)」。坂本龍馬との交流も深かった慎蔵は幕末の日本にあって長府藩に尽力した。

寺田屋事件

1866年1月。土佐脱藩浪士の「坂本龍馬」は薩摩藩と長州藩の軍事同盟「薩長同盟」の締結に成功する。龍馬と行動を共にしていた慎蔵は、京都・伏見の「寺田屋」で事のあらましを聞かされていたという。

当時の龍馬には政敵が多く、江戸幕府直轄地の政務を取り仕切る「伏見奉行」も龍馬の捕縛、もしくは暗殺を狙っていた。

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1月23日の夜中、慎蔵と龍馬が泊まる寺田屋に伏見奉行が踏み込む。派遣された奉行は30名ほどであったという。異変に気づいたのは一階で入浴中だった龍馬の妻「お龍」。彼女は半裸のまま二階で談笑する二人に危機を知らせた。

伏見奉行衆の襲撃に慎蔵は槍、龍馬は愛用の拳銃で応戦する。善戦する二人だったが、多勢に無勢で逃げることが精一杯であった。奉行側には負傷者の他に死者も出たとされ、争いは激しいものだったといわれている。

慎蔵は龍馬を近くに隠し、自ら薩摩藩邸(当時の薩摩藩には奉行所の権限は及ばなかった)に救援を要請してことなきを得た。龍馬は手に深傷を負ったが命に別状はなく、3人(お龍含め)は無事に生き延びている

坂本龍馬の妻・「お龍」(Wikipediaより)

長州征伐時の慎蔵

寺田屋事件をきっかけとして二人の絆は深まったとされる。その後3人は薩摩軍艦で京都を離れ、龍馬は手傷の療養のためにお龍と共に鹿児島へ。慎蔵は長府藩への報告のため下関で別れた。

慎蔵は寺田屋事件の功により、長府藩から刀の下賜と20石の加増を受け「同藩目附役」に任じられている。幕府軍との戦いとなった第二次長州征伐時では、指揮官であった高杉晋作の元で「報国隊軍監」として戦の勝利に貢献した。

龍馬との盟友関係

寺田屋の一件以降、盟友関係を築いた慎蔵と龍馬。

1867年。龍馬は自身が立ち上げた「亀山社中(海援隊)」の拠点を下関に置いた関係で、再び慎蔵と再会する。そして同行していたお龍の面倒を慎蔵に託している

4月になり、いろは丸事件(イギリスで建造され、大洲藩から海援隊が借り受けた蒸気船いろは丸と、紀州藩の明光丸が瀬戸内海で起こした衝突事故)が起こると、翌月には龍馬から慎蔵宛にお龍の後事を託す手紙(※一部抜粋「万一のご報知仕候時ハ、(略)愚妻おして尊家に御養置可被遺候よふ」)が届いている

同年11月、近江屋事件で龍馬が暗殺される。慎蔵は生前の約束を守りお龍の面倒をみた。翌年には土佐にある坂本家にお龍を送り届けている。

明治維新後

明治に入ると長府毛利家家扶(皇族や華族の家で、家務を担当する立場)として上京。その後、宮内省に出仕し北白川宮能久親王の家扶となる。

1890年。東京での仕事を退官すると、故郷の長府へ戻った。1901年没。享年71。墓所は山口県下関市にある功山寺。

三吉慎蔵の長男「米熊(よねくま)」(Wikipediaより)

慎蔵の家族

妻・伊予との間に子が3人いた。慎蔵の家族は龍馬の妻・お龍とも一時期同居していたため面識があったという。長男の「米熊(よねくま)」は養蚕業の教育者として活躍し、蚕業学校の校長や教授を歴任した。後に農学博士を授与されている。

長女の「茂子」は3歳で早世し、次女の「友子」も短命で慎蔵より2年早く生涯を閉じている。幼い頃はお龍に子守をされていたともいわれる。長男の米熊と次女の友子は結婚し、子供がいたため三吉家の血統は続いている。

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