大河『豊臣兄弟!』主人公・豊臣秀長以外は皆殺し…秀吉が兄弟姉妹に課した残虐な仕打ちの数々

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大河『豊臣兄弟!』主人公・豊臣秀長以外は皆殺し…秀吉が兄弟姉妹に課した残虐な仕打ちの数々

半年後のことになるのですが、来年(2026年)のNHK大河ドラマは、2年ぶりに戦国時代をテーマとした『豊臣兄弟!』に決定しました。

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『豊臣兄弟!』というタイトルから、兄・豊臣秀吉(演:池松壮亮)と弟・豊臣秀長(演:仲野太賀)二人の物語と思いきや、なんと主人公は弟の秀長というから少し驚きです。

豊臣秀長(Wikipedia)

跡継ぎである男子にはなかなか恵まれなかった秀吉ですが、実は兄弟・姉妹は複数いたことが知られています。

本稿では、『豊臣兄弟!』の主人公である豊臣秀長を中心に、秀吉が兄弟姉妹に対してどのように接したか、その衝撃的な史実を紹介しましょう。

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秀吉が信頼した唯一の異母弟・豊臣秀長

NHKの『豊臣兄弟!』公式ホームページによると、豊臣秀長のプロフィールにはこうあります。

「天下人・豊臣秀吉の弟。登場時の名は小一郎(こいちろう)。兄の天下取りを一途に支え続けた『天下一の補佐役』といわれている。」

小一郎、後の秀長は、定説では秀吉の異父弟とされますが、同じ父であったという説もあります。後述する朝日姫も父親については定かではないので、このことから、彼らの母・仲(なか・大政所)の若い頃の境遇が伺えるでしょう。

大政所(Wikipedia)

仲は、織田家の雑兵とされる最初の夫・木下弥右衛門(秀吉の父)と死別した後、同じく織田家に仕える同朋衆と伝えられる竹阿弥と再婚し、秀長と朝日姫をもうけたというのが通説です。

しかし、この竹阿弥という人物の素性は定かではなく、弥右衛門と同一人物であるという説もあります。もしそうだとすれば、秀長と朝日姫の実父が誰であるのか、判然としないことになってしまうのです。

木下弥右衛門(Wikipedia)

このような事情が後に、秀吉の兄弟姉妹を名乗る人物が現れる事態を招き、結果として彼らが悲劇的な最期を迎える要因の一つとなったとも考えられます。

ともあれ、話を豊臣秀長に戻しましょう。秀長の生年は、一般に1540(天文9)年とされており、兄・秀吉とは3歳違いということになります。

ただし、彼が武将として初めて登場する時期は明らかではありません。秀吉が織田信長のもとで出世していく中で、その補佐として秀吉の麾下に加わり、家中をまとめる役割を担っていたと考えるのが自然のようです。

豊臣秀長像(壷阪寺)

そしておそらくは、秀吉が中国攻めの司令官に就任する1575(天正3)年以降、秀吉陣営の副司令官的な存在となり、武功を重ねていくと思われます。

しかし、秀長の本領は、NHKのプロフィール通り、兄・秀吉の天下統一事業を誠実に支え続けた「天下一の補佐役」ということに尽きるでしょう。

つまり秀長は、若い頃から戦いのために家を空けることが多かった秀吉に代わって家中をよく支え、その結果、豊臣家にとってなくてはならない重要な地位を確立していったと考えられるのです。

秀長の居城・大和郡山城(Wikipedia)

秀吉は、そんな秀長を心から信頼します。そして、「内々の儀は宗易(千利休)、外様のことは宰相(秀長)存じ候」とまで言われるように、秀長は豊臣政権を支える重鎮となっていきます。

秀吉が、これほどの信頼を寄せたのは、彼の一門衆の中で秀長ただ一人であったと言っても決して過言ではないでしょう。

一家眷属のほぼ全てを失った同母姉・日秀尼

日秀尼は、豊臣秀吉の同父姉(父は木下弥右衛門)であり、秀長および朝日姫の異父姉にあたります。諱は「智(とも)」で、本名は「智子(ともこ)」ともいわれています。

彼女は、尾張国海東郡乙之村の百姓・弥助に嫁ぎ、秀次・秀勝・秀保の三人の母となりました。弥助は後に三好吉房と名乗り、関白となった秀次の家老を務め、秀吉の一門衆として清洲城主にまで出世を遂げます。

豊臣秀次(Wikipedia)

しかし、秀吉と淀殿の間に秀頼が誕生すると状況は一変し、秀次は謀反の罪で自害に追い込まれます。

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夫・吉房も所領をすべて没収され、讃岐へと流されました。それどころか、その直後には三男の大和中納言・秀保も急死するという不可解な死を遂げるのです。

次男・秀勝はすでに朝鮮出兵中に死亡していたため、智は短期間のうちに三人の息子をすべて失い、夫とも生き別れるという過酷な運命をたどることになります。

秀次に対する秀吉の対応が常軌を逸していたことは周知の事実です。この事件で智自身はなんとか難を逃れましたが、秀吉は秀次の子どもたち、すなわち彼女の孫たちのほとんどを処刑してしまいました。

瑞泉寺にたつ豊臣秀次とその一族の墓(Wikipedia)

これを受けて、智は京都・嵯峨野の地に善正寺を建立し、息子・秀次一族の菩提を弔う人生を送ることとなるのです。

政略結婚の犠牲となった同母妹・朝日姫

秀吉の異父妹で、旭と呼ばれた朝日姫(旭姫・あさひひめ)は、日秀尼と同様に、初めは尾張国の農民に嫁ぎました。しかし、秀吉の出世にともない、夫も武士に取り立てられ、佐治日向守(さじひゅうがのかみ)を名乗るようになったとされます。

朝日姫(Wikipedia)

しかし、明智光秀を滅ぼした山崎合戦後、天下統一を進める秀吉は、最大の敵であった徳川家康を味方に引き入れるため、無理やり旭と日向守を離縁させ、家康の正室として徳川家に送り込みました。

当時、家康は45歳、旭は44歳でした。彼女は朝日姫として駿河府中に居を構え、駿河御前と呼ばれるようになります。

徳川家康(Wikipedia)

しかし、秀吉の思惑に反し、家康は旭との婚儀が済んでも上洛しませんでした。やむを得ず秀吉は、母・大政所を「駿河御前を訪ねる」という名目で家康のもとへ人質として送ります。この策によって、ようやく家康は上洛し、秀吉との和議が成立したのです。

その後、朝日姫は病がちとなり、家康との婚儀からわずか4年後にその生涯を閉じました。彼女の人生は、秀吉の政略結婚に振り回されたものだったと断言できるでしょう。

天下統一後に判明した兄弟姉妹を皆殺しに

秀吉の兄弟姉妹としては、日秀尼、豊臣秀長、朝日姫の存在が知られていますが、それ以外にも実在した可能性のある兄弟姉妹がいたとされています。

秀吉が天下統一を果たした後、ある若者が「自分は秀吉の弟である」と名乗り、数人の供を連れて大坂城に現れ、秀吉との面会を求めました。

大坂城の図(Wikipedia)

その真意をいぶかった秀吉は、この若者について大政所に尋ねたところ、彼女は曖昧な返答をします。その様子を見た秀吉は、ためらうことなく、若者とその従者たちを一人残らず斬首してしまいました。

その後、秀吉は執拗に自らの兄弟姉妹を探し始めます。そして、尾張に血縁関係のある姉妹がいるという情報を得ると、大坂へ来るよう命じました。おそらく彼女たちは、先の若者が処刑されたことを知っていたのでしょう。さまざまな理由をつけて、大坂行きを遅らせていました。

しかし、秀吉は甘言を弄して彼女たちを大坂へと呼び寄せ、到着するや否や斬首してしまいます。

見つかったのは女子でしたが、秀吉の本心としては、運よく男子(兄でも弟でも)が見つかれば儲けもの、とでも思っていたのでしょう。

このような話は、秀吉の残虐性を示すエピソードとして語られると同時に、「家を守るためには冷酷さも必要である」といった、権力者に求められる資質の一つとして評価されることもあります。

豊臣秀頼(Wikipedia)

つまり、秀吉が若者を処刑したのは、その人物が本物の弟であると認めてしまえば、後継者である秀頼の地位を脅かす存在になり得ると判断したためでしょう。これは、秀頼誕生の際に、秀次とその一族をはじめ、重臣たちまでも粛清したのと同じ理屈であったといえます。

また一方で、天下人になったのを契機に、秀吉は自らの出自を隠そうとしたという説もあります。秀吉がどのような身分に生まれたかは謎とされ、今もって定説がありません。

天下統一直前、小田原北条氏への宣戦布告状の中で秀吉は、「秀吉、若輩(若い頃)に孤(一人)と成て………。」(『言経卿記』)と自らの生まれについて記しています。

また、毛利の外交増・安国寺恵瓊は「若い頃の秀吉は一欠片の小者(取るに足りない身分の者)に過ぎず、乞食をしたこともある人物だった。」(『毛利家文書』)と書き残しています。

豊臣秀吉(Wikipedia)

このような資料から、秀吉の出自は良くて農民階級、もしかするとそれ以下の身分であった可能性も指摘されているのです。

ともあれ、秀吉が自らの兄弟姉妹に対して課した行いを知った上で、『豊臣兄弟!』を見れば、豊臣秀長がどんなに秀吉から信頼された人物であったを理解できるのではないでしょうか。

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