包囲された城に”踊りながら入城”?幕末の会津戦争で実際にあったとんでもない伝説の奇策とは (2/3ページ)
そのことを察知していた新政府側は、おとなしくしていた藩主・松平もろとも、会津藩を警戒するようになります。
狙われた会津藩会津藩を警戒していた新政府軍は1868年3月11日に江戸城が無血開城されると、幕府を補佐する「佐幕」の重鎮でもあった藩主・松平へ矛先を向け、目の敵にしたのです。
倒幕を目指す新政府軍は、仙台藩や米沢藩に追い打ちを命じて一気に会津藩を片付けようとしますが、思い通りにはいきません。
追討を命じられた仙台藩や米沢藩が会津藩に同情し、会津藩への赦免嘆願の声をあげたのです。
奥羽越列藩同盟
会津藩への赦免嘆願をキッカケに、会津藩・仙台藩・米沢藩の間で結束力が誕生し、奥羽越列藩同盟を結成します。その後、嘆願書の提出や朝廷に建白をおこなうなど会津藩の存続に尽力。しかし新政府には、会津藩への赦免は受け入れてもらえませんでした。
そのようななか、仙台藩士が新政府の官僚である世良修蔵を殺害したことがキッカケで、会津戦争が勃発。多くの死者を出す、国内最大級にして最悪の内戦となったのです。
彼岸獅子
会津若松城
会津戦争では新政府軍が有利な状態となり、奥羽越列藩同盟は追い詰められます。
若松城に逃げ込みたい奥羽越列藩同盟ですが、若松城周辺はすでに新政府軍に包囲されていました。そこで何を思ったか、会津藩の山川浩は「踊りながら入城」しようと提案。