徳川家康が子を託した男「平岩親吉」天下を陰で動かした知られざる生涯【後編】 (2/2ページ)

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仙千代は、わずか五歳でこの世を去ってしまいます。

信康に続き、仙千代までも失った親吉。その胸中はいかばかりだったでしょうか。我が子のように愛し、大切に育てた命を二度までも失うという経験は、言葉では語りきれない深い痛みをもたらしたに違いありません。

大名として甲府に戻る

1601年、関ヶ原の戦いが終わると、親吉は再び甲府に戻されます。今度は領主として――六万三千石の大名となって、甲斐の国を任されたのです。

そして1603年、徳川家康が征夷大将軍に就任したこの年、家康の九男・五郎太丸(のちの徳川義直)が甲斐一国25万石に封ぜられると、親吉は甲府城に在城し、幼少かつ駿府にいる義直の代理として甲斐統治を行いました。

義直とともに尾張へ――藩政を支える晩年

その後、義直が尾張に移ると、親吉もそれに従って清洲、そして名古屋へと移ります。
晩年になってもなお、親吉は藩政の重責を担い続けました。幼い主君の成長を見守り、時に導き、支え続けたその姿――まさに「傅役(もりやく)」としての人生の集大成だったといえるでしょう。

信康、仙千代、義直。三人の子どもたちが、それぞれの時代に親吉に託されました。親吉の人生は、一貫して「育て、支える」ことに尽くされていたのかもしれません。

名を残さずとも、偉大な生き方

1612年、親吉は名古屋城で亡くなります。享年七十。子がいなかったため、平岩家はここで断絶しますが、家臣たちはそのまま義直に仕え続けました。領地も返上され、後継は置かれませんでした。

戦場で大手柄を立てたわけではありません。けれど、家康が心から信じ、自らの子どもたちを託した男――その生き方こそ、特筆すべきものではないでしょうか。

親吉のように、表に名を残すことはなかったとしても、人を育て、未来を支えた生涯。
それはまさに、“天下を陰で支える仕事”だったのだと思います。

参考

平岩親吉 天下人から絶大な信頼を得た忠臣 『日本の旅侍』 平岩親吉の悲しみと忠義  YouTube 小和田哲男監修『ビジュアル 戦国1000人』(2009 世界文化社)

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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