大河『豊臣兄弟!』に登場か?豊臣家の影に生き忠義に命を捧げた武将・河尻秀長の生涯 【前編】 (3/3ページ)
その後は、京都の方広寺に大仏を建立する事業にも奉行として関わり、政治や文化の面でも活躍の場を広げていきました。
九州征伐にも参戦1587年には、秀吉の九州征伐に150人の兵を率いて従軍。このころから「肥前守」を名乗るようになり、肥前・名護屋城などでも軍政に携わります。
秀長の任される仕事は、どんどん多岐にわたっていきました。摂津の高槻や茨木といった重要な地の代官(実質的な城主)を任されたことからも、秀長の立場の高さがわかります。
特に茨木では、秀吉の嫡男・鶴松の養育に関する役職も担っており、政権中枢に近い存在として重用されていたことは間違いありません。
1592年の文禄の役では、肥前・名護屋城に詰め、明国からの使者に対応する場面にも同席しました。秀長は、戦だけでなく外交や儀礼の場でも、その役割を果たしていたのです。
秀吉の「形見」を継承1598年、秀吉が亡くなると、秀長は「盛光」という名刀を形見として贈られました。これは、特別に信頼された家臣だけに与えられるものでした。秀吉の信任の深さが、ここにも表れています。
次回の【後編】に続きます。
参考文献
須田茂『徳川大名改易録』崙書房出版、1998 横山住雄『中世美濃遠山氏とその一族』岩田書院、2017日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan