歌舞伎で風紀が乱れる?江戸時代に歌舞伎や相撲が”危険視”されていた理由【前編】
歌舞伎で風紀が乱れる!?
今や日本を代表する伝統芸能である歌舞伎と相撲は、非常に格式が高く、様式美に彩られた高尚なエンタメとして捉えられています。
しかし、そんな現代のイメージとは正反対に、これらの伝統芸能は江戸時代までは割と荒っぽく、アウトローな世界の位置づけだったようです。
今回はこれらの伝統芸能の歴史と、やくざな世界との繋がりについて、前編・後編に分けて歴史をたどっていきましょう。
歌舞伎は出雲阿国が創始した「かぶき踊」が原点とされており、遊女屋で取り入れられた「遊女歌舞伎」や、十代の少年役者が演じた「若衆歌舞伎」などが人気を博しました。
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伝統芸能・歌舞伎はどう生まれてどのように発展したのか?その歴史をたどるしかし、こうした数々の歌舞伎は、風俗の乱れを懸念した幕府によって禁止されました。
その後は成年男性だけが演じられる野郎歌舞伎が残り、女性の役も男性が演じるようになります。また、初代市川團十郎が「荒事」といわれる演技様式を生み出し、こうした工夫を経て江戸の娯楽として定着していきました。
同時に、歌舞伎役者は江戸のファッションリーダーとなり、さまざまなトレンドを発信するようになります。しかし、それゆえに幕府からは警戒され、規制の対象になることも少なくありませんでした。
天保の改革では七代目市川團十郎が奢侈を理由に江戸から追放され、芝居小屋も浅草の猿若町に移転させられています。
しかし改革の挫折によって息を吹き返し、幕末から明治にかけては、博徒や義賊を主人公にした演目が人気を得るようになりました。
「始末に負えないもの」江戸時代、歌舞伎興行を催す際には許可が必要でした。幕府から許可を与えられた者を座元といい、スポンサーである金主から資金を集め、役者や狂言作者と契約して興行を行っていました。
江戸中期以降、座元として興行を許されたのは中村座の中村勘三郎、市村座の市村羽左衛門、森田座の森田勘彌で、その権利は代々世襲されていきます。
歌川廣重『東都名所 芝居町繁榮之圖』 芝居見物客で賑わう猿若町。通り左側手前から中村座・市村座・河原崎座(Wikipediaより)
ところで相撲の興行は、神社や寺院の造営や修繕の費用を集めるための資金集め(勧進)で行われることがほとんどでした。
一方で、各地の祭礼や盆の行事で草相撲も盛んに行われ、人気を博します。
現在では格式張ったイメージがある相撲界ですが、江戸時代は女性の観戦が禁じられており、血気盛んな男たちが好む娯楽でもありました。
しかし応援に熱が入りすぎて、見物客同士のケンカも多かったようです。このあたりは、西欧のサッカー観戦におけるフーリガンなどを連想しますね。
江戸時代初期の遊里案内書『色道大鏡』では、「悪性」のひとつとして角力(相撲)が挙げられていますが、博打や男伊達、大酒飲みと並ぶ「始末に負えないもの」とされているのです。
【後編】では、実は存在していた「女相撲」や、こうした芸能と無頼者たちとの関わりについて説明します。
参考資料:縄田一男・菅野俊輔監修『鬼平と梅安が見た江戸の闇社会』2023年、宝島社新書画像:Wikipedia
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