【べらぼう】人々の怒りが頂点に…田沼意次を失脚に追い詰めた「新之助の義」天明の打ちこわしとは?
天明7年(1787年)5月、江戸全域において大規模な打ちこわしが発生しました。
これが後世に伝わる天明の打ちこわし。その影響によって田沼意次(渡辺謙)が完全に失脚、松平定信(井上祐貴)への政権交代がもたらされます。
「べらぼう」なぜ田沼意次(渡辺謙)は徹底的に排除された!?理由を江戸幕府の政治理念から考察【前編】NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」第32回放送「新之助の義」では、田沼政権の終焉と松平定信政権の誕生が描かれることでしょう。
今回はそんな天明の打ちこわしについて確認し、「べらぼう」次回放送の予習をしておきましょう。
「貧乏人は犬猫でも食ってろ」?お上への不審と広がるデマ
奉行所としても、何とかしたいところではあるが……なかなか腰が重い(イメージ)
かねてから高騰していた米価が、天明7年(1787年)4月から5月にかけて、さらに急騰。わずか1年あまりで3倍以上に値上がりしてしまいます。
幕府もお救い米など実施するも、小規模かつ限定的なもので、まさに焼け石に水でした。
また5月9日には3度目となる米穀売買勝手令を出すも、投機目的の商人たちが米を買いあさっては溜め込む始末。生活苦に耐えかねた人々は5月10日ごろから町奉行所へ押しかけ、連日にわたり救済を求めます。しかし北町奉行の曲淵景漸(まがりぶち かげつぐ)などは対策をとらず「自分たちで何とか食いつなげ」と追い返すばかりです。
なおも食い下がった人々に対して、町奉行所は大豆を安く売るようにお触れを出しました。まるで「貧乏人は豆でも食ってろ」と言わんばかりに。
しかし肝心の米価については特段の対策をとらず、不当に米価を吊り上げている米屋に対する捜査なども、おざなりにしか行いません。
町奉行所による救済は江戸の人々にとって、最後の頼み。餓死者が相次ぎ、もはやこれまでとばかり、両国橋や永代橋から投身自殺する人まで現れました。
当局が橋の監視を強化すれば、場所を変えて身投げするだけのこと。しまいには渡し船さえ禁止したものの、とても防ぎ切れたものではありません。
こうした社会不安の中で、様々なデマも飛び交いました。
「お奉行様は『食い物がなければ犬や猫でも食ってろ』と暴言を吐いた」
「豆ばかり食い続けると、疫病や脚気にかかって死んでしまう」
「何なら幕府の連中は、江戸の人口を減らしたいんじゃないのか……」
ついに人々の怒りは頂点に達します。かくして5月20日の夕刻から夜にかけて、江戸じゅうを荒れ狂わせる天明の打ちこわしが幕を開けたのでした。
いざ決起!「まことに丁寧、礼儀正しく」乱暴狼藉
「幕末江戸市中騒動図」より、天明の打ちこわしで反物屋を襲撃する人々。
それまでも5月12日ごろから江戸の各所で小規模な打ちこわしが散発していたものの、5月20日の打ちこわしは桁違いのものとなります。
赤坂で米屋や米搗屋が20〜30軒ほど襲撃され、夜には深川でも打ちこわしが行われました。
明けて5月21日、夜の内に決起の情報が広まったようで、江戸のほぼ全域で打ちこわしが始まります。
打ちこわし勢は鐘や半鐘、太鼓に拍子木、金盥(かなだらい)など打ち鳴らしながら米の買い占めを行う商家などに大挙しました。
みんな手に手に棒やら鍬(くわ)やら鋤(すき)やらを振りかざし、大八車で商家の門戸を打ち破るさまは、さながら城攻めを思わせます。
「かかれ!」
合図が下されるとみんな一斉になだれ込み、手当たり次第に破壊したのでした。
彼らは米・麦・豆・味噌・酒などを路上にぶちまけたり川へ投げ込んだり、家財に商売道具など徹底的に破壊の限りを尽くします。
しかし興味深いのは、彼らが打ちこわしに乗じた略奪行為に及ばなかったこと。うっかり家事など出さないように火の元はあらかじめしっかりと消し、住む場所がなくなったら困るだろうからと建物までは壊しません。
また破壊行為は合図によって始まり、合図によって休憩が入ります。そして合図で始まり合図で終わるという秩序だった集団行動は、世界史上でも奇異な暴動でした。
彼らはあくまでも悪徳商人らに対して社会的制裁を加えたいのであって、決して力ずくで盗みや強盗を働きたいわけではなかったのです。
そんな打ちこわしの様子を、ある水戸藩士が「まことに丁寧、礼儀正しく狼藉」を仕ったと記録しています。丁寧かつ礼儀正しい乱暴狼藉というものが、ここでは両立していました。
しかし5月22日ごろになると、打ちこわしに乗じて米などを盗む者が現れ、よほど追い詰められていたことが分かります。
5月25日まで続いた打ちこわし
「幕末江戸市中騒動図」より、天明の打ちこわし。右の方に米を拾っている人々がいる。
江戸じゅうが打ちこわしの熱狂に沸き立つ中、町奉行所の反応は今一つでした。
江戸城では寺社奉行・勘定奉行・町奉行が対応を協議。口論の末に不作為を責められた曲淵景漸が渋々?鎮圧に出向いたものの、あまりの勢いを前に、思い切った態度がとれません。
「普段ならお奉行様を敬いもする。しかしここまで我らを見殺しにしておいて、今さら何を恐れ憚る必要があるものか。近寄ったら叩き殺すぞ!」
「今、江戸じゅうで人々が苦しんでいるのを見て見ぬ振り。御公儀は誠にむごく不仁な御政道をなさいますなぁ!」
暴徒らに罵倒されて仕方なく、打ちこわしに乗じて盗みを行う者を逮捕する程度にとどまりました。
もはや町奉行の手に余るため、5月23日に入って長谷川平蔵ら先手組10名に市中取締が命じられます。
「騒ぎを起こす者を捕らえて町奉行へ引き渡せ。抵抗するならば斬り捨てても構わぬ」
かくして市中へ繰り出した平蔵たちですが、これもはかばかしい成果が出ません。商家などではお上を当てにせず、自衛のために木戸を封鎖し、各個に武装を固めるのでした。
いっぽう打ちこわし勢も大いに暴れ済んだのか、5月24日には芝や田町で打ちこわしを行ったものの、5月25日にはほぼ沈静化したそうです。
打ちこわしの被害や結果
打ちこわし勢の中に怪しい男。一橋治済(生田斗真)のようにも見えるが、果たして?NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式サイトより。
以上が天明の打ちこわしにおける概略ですが、江戸での被害は商家500軒余り(一橋家調べ)。そのうち400軒以上が米屋・米搗屋・酒屋など食料品関連店でした。他は米騒動に乗じて米を買い占めた商家などと思われます。
打ちこわし勢は破壊活動だけでなく押し買い(押し売りの逆で、安値で強引に買うこと)も行っており、彼らが思う適正価格で売らせました(拒否すれば打ちこわし)。
いっぽうで米不足の中でも適正価格で米を売り続けた米屋などについては打ちこわしの標的から外しており、商人としての社会的責任を果たしたか否かで明暗が分かれたようです。
打ちこわしの参加者はおよそ5,000人ほどと記録されており、その内逮捕者は37名、逃走した指名手配犯5名と極めて少数(全体の1%未満)でした。
また首謀者(指導者)の存在は確認されておらず、義憤に駆られた江戸の人々が自然発生的に暴徒化したものと考えられています。
それであの秩序だった打ちこわしを実現できたのだとしたら、日本人が持つ団結力と協調性の高さに恐れ入るばかりですね。
天明の打ちこわしが行われた結果、幕府でも遅まきながら貧民に対する救済策がとられるようになりました。
しかし幕府の権威が根底から揺らぎ、人々からの信頼が失われつつある中、天明末期から寛政初期にかけて大政委任論が唱えられるようになります。
これは「天皇陛下=朝廷の権威を為政者たる裏づけとする」思想で、もはや幕府のみの権威では、人々が心服しなくなった証左と言えるでしょう。
それまで幕府に押さえつけられていた朝廷の権威と政治力が相対的に高まっていくのでした。
終わりに
まさか蔦重まで打ちこわしの仲間入り?NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式サイトより。
今回は人々の怒りが幕府の権威を根底から揺るがした大騒動「天明の打ちこわし」について紹介してきました。
NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」第32回放送「新之助の義」の予告編で「田沼の手先に話すことはない」と蔦重(横浜流星)に言っていた声は新之助(井之脇海)でしょうか。永年助け合ってきた二人ですが、このまま訣別してしまうとしたら残念でなりません。
果たして新之助はどのように義を貫き通すのか、心して見守っていきましょう!
※参考文献:
安藤優一郎『寛政改革の都市政策』校倉書房、2000年10月 岩田浩太郎『近世都市騒擾の研究』吉川弘文館、2004年7月 片倉比佐子『天明の江戸打ちこわし』新日本出版社、2001年10月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
