悲劇のヒーロー楠木正成、盟友・足利尊氏との宿命の戦いで散った忠臣の最期と“伝説化”の道【後編】

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悲劇のヒーロー楠木正成、盟友・足利尊氏との宿命の戦いで散った忠臣の最期と“伝説化”の道【後編】

【前編】の記事では、得意の戦法で鎌倉幕府を倒し、“日本をせんたく”した楠木正成の活躍について紹介しました。

悪党から天皇の忠臣へ――武将・楠木正成が貫いた忠義と美学、そして悲劇の最期…【前編】

【後編】では、彼の身に降り掛かった悲劇の幕開けについて紹介します。

新政が天下に混乱をもたらし、ついに盟友尊氏が離反!

後醍醐天皇と朝廷の貴族を中心とした建武の新政は、天下を正すべく行われましたが、功績の無い貴族層による利権の独占が目立つようになり、割を食った武士達は不満を抱きます。武士の土地と言うのは生活基盤だけでなく、戦の功績など名誉ある褒美として賜ることもあったので、彼らが面目を潰されたと考えたのは、想像に難くありません。

そうした武士達が頼ったのは、後醍醐天皇が“功績第一”として褒め称えて高い官位と自分の名前から一字を与えて“尊氏”と改名させた足利高氏でした。高氏あらため尊氏は、正成と共に鎌倉幕府を討った仲間でもあり、建武2年(1335年)に北条氏の残党を討つために鎌倉へ行っていました。

しかし尊氏は鎌倉で政権を樹立し、朝廷に不信を抱く武士の総帥として謀反を起こしたのです。一見すると『謀反人=悪人』というイメージになりがちですが、本来の彼は後醍醐天皇を尊敬する忠臣でした。しかし、お人好しな上に人望がある尊氏は、武士達に突き動かされてしまったのです。いずれにしても、共に戦った二人は不幸な形で引き裂かれてしまったのでした。

尊氏に勝ったが、勝負に負けた?

正成は、尊氏とかねてから敵対していた新田義貞、皇族武将の尊良親王、公家出身の北畠顕家と言った武人達と共に、尊氏を討つべく出陣します。緒戦こそ義貞が尊氏に押され、建武3年(1336年)正月に京都を制圧されるなど不利でしたが、正成は得意の奇襲戦法で尊氏を撃退しました。

こうして、負けた尊氏は九州を目指して逃げていきますが、朝廷に背いた“賊軍”であるにもかかわらず、多くの武将が尊氏のあとをついて行き、寝返ってしまったのです。勝者である朝廷は、戦力を敗者の尊氏にごっそり持って行かれてしまったことになります。

この一件は如何に尊氏が人徳に溢れた存在であり、対する朝廷は徳ばかりか臣下の信頼を失い続けているかを、正成に痛感させたのでした。

足利軍の大逆襲!正成は打開策を打ち出すが…

『梅松論』と言う書物には、敗れても多くの人に慕われる尊氏の仁徳に改めて感じ入った正成が、「義貞を征伐し、その首を足利殿に差し出して和睦して下さい」と後醍醐天皇に申し上げた、とあります。

正成は、人望があり戦も強い尊氏を許して呼び戻すことで、争いを止めようとしたのでしょう。それに対して公家衆は、賊軍と和解しようとした正成を侮辱した上、謹慎させてしまったのです。

建武3年の4月、尊氏は多々良浜の戦いで九州の支配権を手にし、光厳上皇から義貞討伐の命令書も頂戴して、京都を目指して進軍してきました。その兵数は十万を超し、義貞率いる官軍は惨敗を喫します。

これには朝廷も慌て、正成を呼び戻して尊氏を倒すように命じます。和睦もならず正攻法では勝ち目のない状況下で、正成は湊川(現在の兵庫県)で死を賭した戦いに臨むこととなったのです。

計略も無視され、死地に追い込まれた正成…湊川の地に出陣!

建武3年(1336年)の5月、迫り来る尊氏に手を焼いた朝廷は、謹慎させた正成を呼び出して尊氏迎撃の戦略を述べさせます。

「天子様は京都を離れて、比叡山にご避難下さい。足利軍を京都に誘い込み、ワシと義貞で敵の輸送路を断って兵糧攻めにすれば勝てます」

こうした正成の実利的な案に対し、武士を軽く見ていた公家衆は猛反対した挙句、彼の努力と貢献を踏みにじります。

「君は、二度も陛下に都落ちさせて権威を損なう気かね?」
「皇室が天の加護を受けているから、偉大なる朝廷は勝ったのだ」

その上、頼みにしていた後醍醐天皇までも彼らの言葉に乗ってしまいます。こうして正成は、士気も兵数も劣る状況下で、湊川で尊氏を迎え撃つことになったのです。

正成、愛する息子に未来を託す…桜井の別れ

正成は、湊川に行く途中で桜井の駅(大阪府)に立ち寄り、長男の正行(まさつら)を呼んで彼を故郷に逃がします。正行はそれを拒否し、「僕も父上のお供がしたいです」と訴えるのですが、正成は彼を諭しました。

「お前の顔を見るのも今日で最後…足利殿は確実に天下人となるだろうが、お前は忠誠心を忘れずに朝廷をお守りするのじゃ。一族郎党を一人でも生き残らせて、いつの日か朝廷の敵を倒しておくれ」

そう言うと、正成は後醍醐天皇から頂いた菊水の紋を入れた短刀を授けて楠木家の未来を託し、最愛の息子と涙ながらに別れたのでした。

5月24日、正成は湊川に到着して義貞と合流します。連戦連敗の義貞は尊氏にはどうしても勝てず、苦悩していました。義貞嫌いのイメージが強い正成ですが、追い込まれて憔悴しきった義貞を慰めて酒を酌み交わします。その義貞と楽しんだ酒盛りこそ、正成にとって最後の晩餐となったのでした。

激戦、湊川の戦い!されど、正成の天命は尽きていった…

翌朝、5月25日の辰刻(午前8時)に九州から多くの武士に守られた尊氏の船団が湊川に到着します。義貞は三方向が海に面する和田岬に、正成は湊川西部の会下山に布陣しました。双方が矢を射かけ、刃を交えた大乱闘に発展しますが、義貞がミスを犯します。

「先頭で東に上陸しようとしている船にこそ、尊氏がいるのでは?」

しかしそれは足利軍の妙計であり、尊氏は後方の船にいたのです。まんまと誘導されてしまった義貞が和田岬の防備を手薄にしてしまったため、楠木軍と新田軍は分断されてしまったのです。

しかも、退路を断たれるのを恐れた義貞が一目散に逃げ出してしまったことで正成達は孤立してしまい、700余騎で尊氏の大軍を相手にする事になります。逃れられぬと悟った正成は、足利直義(ただよし。尊氏の弟)の軍に16回も突撃をして損害を与えました。

この戦いは6時間にも及び、楠木軍は73騎にまで減って正成自身も11か所に傷を追って力尽きてしまいます。正成と正季らは一軒の民家を見つけ、そこを最期の場所に決めました。正成が死ぬ前に何を思うかと正季に尋ねると、

「兄貴…俺は7たび人間に生まれ変わって、朝廷の敵を倒したいよ」

それに対して正成もうなずき、

「罪深い事を考えているなぁ…ワシも同じだよ」

そして、正成と正季は刺し違えて自害し、配下全員も自決しました。盟友の末路を知った尊氏は正成を不憫に思い、その首級を故郷の家族に引き渡します。こうして正成の一生は終わりましたが、その後も彼の生き様は伝説として語り継がれます。

江戸時代で人気急上昇した正成、黄門様も大ファンだった!

足利尊氏との戦いで正成が死んで正行が継いだ後も、楠木家は南朝に仕え続けますが、北朝が正統と見做されるようになると、彼は朝敵(朝廷の敵)扱いを受けます。しかし、正成の末裔を称した戦国武将・楠木正虎(まさとら)が天皇に嘆願して汚名を返上したのを始め、尊氏にも劣らず民衆思いだったことから、庶民にも正成人気は広まっていきました。そう、アイドル化が始まったのです。

江戸時代以降は『三国志演義』の流行から、悲劇の忠臣で不世出の軍師でもある諸葛孔明と重ね合わせられ、人気は更に高まりました(日本の武士と三国志をコラボさせる所は平成そっくりですね)。また、由井正雪などの武士には正成が祖となった楠木流の兵法が広く学ばれます。

また、足利と同じ源氏の血を引く徳川氏も正成には好意的であり、水戸黄門こと徳川光圀は寂れていた正成の墓に「嗚呼忠臣楠子之墓」と彫り込んだ墓碑を建立させていました。そのお墓は、今も湊川神社境内にあります。その光圀が着手した“大日本史”などで朝廷・皇室の権威を重視する学問で南朝が正統と見做されたことが、幕末における正成を崇敬する姿勢に代わっていくのです。

動乱の志士を支えた名将、近代化以降には陰りを見る?

討幕の英雄・正成は“朝廷に忠義を尽くし、幕府を滅ぼした名将・大楠公”として、志を同じくしていた尊王攘夷の志士らに崇敬されました。坂本龍馬が正成のファンとなって彼の墓に詣でたのも、こうした時代背景があったのです。龍馬は、討幕で日本をせんたくした正成にあやかり、『日本を今一度せんたくいたし候』と決意したと言えます。

幕府から皇室に政治の中心を奪還した明治維新は、建武の新政を開いた南朝の崇拝と、それを守ろうとした正成を国民の模範として称える方針を打ち出しました。明治5年(1872年)に正成を祀った湊川神社が建立され、“大楠公(だいなんこう)”と言う尊称を与えられた彼の逸話が歴史・国語・修身(道徳)の教科書に盛り込まれるなど、国家ぐるみで神格化されたのです。

そうした風潮は北朝の天皇と将軍、特に“後醍醐天皇に逆らい、正成を殺した反逆者”とされた尊氏への過剰なバッシングなど中世日本史の研究と関心を妨げる弊害を呼びました。太平洋戦争(大東亜戦争)の時には戦意高揚のスローガン“七生報国”を始め、楠公飯(炒った玄米に水を吸わせたご飯で不評だった)などに正成の名前や逸話が使われるなど、庶民に愛されるヒーローだった彼は、政権の都合を押し通すために利用され、不遇の時代を送ったのでした。

正成は、七度どころか無限大に生まれ変わって今も人気は健在!

終戦を迎えてからも正成を取り巻く環境には不遇が続き、戦中の軍部と同様に占領軍も日本統治のために検閲を厳格化し、正成も一時は教科書から消されます。戦後は歴史研究への抑圧が無くなったことから中世史の研究が一気に発展し、正成を見捨てた新田義貞、謀反人とされた尊氏の名誉も徐々に回復されていきましたが、正成の人気は衰えませんでした。

それどころか、湊川神社は“楠公さん”と呼ばれて親しまれ、皇居前の正成像、千早城や赤坂城、観心寺と言ったゆかりの地は信仰や観光の名所になり、吉川英治さんが尊氏を主役にして書いた『私本太平記』を始めとした歴史小説でも、相変わらず愛されました。明治政府の国策、占領軍の検閲など政権の圧力を跳ね除けるパワーと人気は、豪傑と言う意味での悪党に原点回帰したと言えるかもしれません。

中でも『私本太平記』を原作にした大河ドラマ『太平記』では、温和で土を愛するが戦いでは非常に強い正成を武田鉄矢さんが魅力的に演じており、話題となりました。『Qさま!』で正成と龍馬の関連性を紹介していたのが、両者を演じた経験がある武田さんと言うのも縁を感じますね。

楠木正成は“七回生まれ変わって朝敵を倒す”と言う忠誠心溢れる最後の言葉に注目されがちですが、そうした忠義だけが愛される要因ではありません。悪党と呼ばれた頃から忘れなかった民への気配り、敵に回った尊氏と互いを認め合った友情、我が子の前途を気遣う愛情に代表されるヒューマニズムと正義感を人一倍持ち続けていたからこそ、時代を超えても正成は愛されるのだと筆者は考えます。

七回どころか、無限大に生まれ変わって飛躍し続ける永遠なるヒーローとして、正成はこれからも存在し続けていくことでしょう。

画像:ウィキペディア『楠木正成』『湊川神社』『観心寺』より

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