暗殺という非業の最期… 過激な思想で幕末〜明治の日本を揺さぶった異端児・森有礼の生涯【後編】

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暗殺という非業の最期… 過激な思想で幕末〜明治の日本を揺さぶった異端児・森有礼の生涯【後編】

前回の記事では、森有礼が薩摩藩から渡欧・渡米し、日本初の駐米公使や思想家として頭角を現した姿を見てきました。

国語を英語に? 過激な思想で幕末〜明治の日本を揺さぶった異端児・森有礼の非業の末路【前編】

今回は、彼が教育制度を築き上げ、政治家として活躍する一方で、世論との摩擦から暗殺に至るまでをたどります。

森有礼 Museum of Fine Arts, Boston

初代文部大臣としての改革

1885年、森は第一次伊藤博文内閣で初代文部大臣に就任します。在任中、学位令、師範学校令、小学校令、中学校令、諸学校通則などを公布し、日本の学校制度を近代的に整備しました。東京高等師範学校を「教育の総本山」と位置づけ、教員養成を強化したことは特筆すべき点です。

また、森は女子教育にも積極的で、「良妻賢母教育」を推進しました。1886年には「生徒教導方要項」を全国の女子学校に配布し、家庭と国家を支える女性の育成を教育方針に位置づけました。

契約結婚と家族

森は1875年、広瀬常と結婚しました。この結婚は「契約結婚」と呼ばれ、日本で初めて婚姻契約書が交わされた例とされています。そこには「夫婦が互いに敬愛すること」「共有物を勝手に処分しないこと」などの条項が記されており、証人は福澤諭吉でした。

結婚生活は11年で解消されましたが、この出来事は日本における近代的婚姻観の象徴として注目されました。その後、森は岩倉具視の娘・寛子と再婚します。彼の子孫には哲学者・森有正らがいます。

国語外国語化論と批判

森の最も有名な主張の一つに「国語を英語に」という案があります。これは日本が欧米に追いつくために有効だと考えた提案でしたが、馬場辰猪や西周らが強く反対し、大きな論争となりました。

当時の国民感覚からすれば受け入れがたい発想であり、森の急進性が際立つ例でもあります。

暗殺という最期

森の改革的な姿勢は、同時代の保守的な人々に強い反発を呼びました。とくに「伊勢神宮不敬事件」と呼ばれる噂が流れ、森が神聖な場所を軽んじたという疑惑が広まりました。真偽は不明ですが、これが彼への不信を増幅させたといわれます。

そして1889年2月11日、大日本帝国憲法発布の日。森は式典に向かう途中で国粋主義者・西野文太郎に襲撃され、翌日息を引き取りました。享年43歳。

外交官、教育者、政治家として日本の近代化に尽くした森有礼。その生涯は短くも激しく、時代の先を行く思想で社会を揺さぶりました。もし彼が生き続けていたなら、日本の教育や文化はさらに違った形をとっていたかもしれません。

参考文献

大久保利謙 編『森有禮全集』(1972 宣文堂書店 ) 木村力雄『異文化遍歴者森有礼』(1986 福村出版) 木村匡『〈伝記叢書〉森先生伝:伝記・森有礼』(1987 大空社 ) 上沼八郎・犬塚孝明 共編『新修 森有禮全集』(1999 文泉堂書店 ) 犬塚孝明『〈人物叢書〉森有礼』(2003 吉川弘文館 ) 国吉栄『森有礼が切り拓いた日米外交:初代駐米外交官の挑戦』(2018 勉誠出版 )

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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