暗殺という非業の最期… 過激な思想で幕末〜明治の日本を揺さぶった異端児・森有礼の生涯【後編】 (1/2ページ)
前回の記事では、森有礼が薩摩藩から渡欧・渡米し、日本初の駐米公使や思想家として頭角を現した姿を見てきました。
国語を英語に? 過激な思想で幕末〜明治の日本を揺さぶった異端児・森有礼の非業の末路【前編】
今回は、彼が教育制度を築き上げ、政治家として活躍する一方で、世論との摩擦から暗殺に至るまでをたどります。
森有礼 Museum of Fine Arts, Boston
初代文部大臣としての改革1885年、森は第一次伊藤博文内閣で初代文部大臣に就任します。在任中、学位令、師範学校令、小学校令、中学校令、諸学校通則などを公布し、日本の学校制度を近代的に整備しました。東京高等師範学校を「教育の総本山」と位置づけ、教員養成を強化したことは特筆すべき点です。
また、森は女子教育にも積極的で、「良妻賢母教育」を推進しました。1886年には「生徒教導方要項」を全国の女子学校に配布し、家庭と国家を支える女性の育成を教育方針に位置づけました。
契約結婚と家族森は1875年、広瀬常と結婚しました。
