『べらぼう』で有吉弘行が演じる服部半蔵正礼の生涯。黄表紙を愛したことが皮肉な結果に…
奥州白河藩で松平定信(井上祐貴)に仕えていた服部半蔵正礼(まさよし)。
NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の第33回放送「打壊宴太女功徳」では「服部半蔵」とのみ表記されていたため、驚いた視聴者も少なくなかったのではないでしょうか。
「戦国武将の服部半蔵が、なぜまだ生きているのか!?」と。
彼は皆さんご存じ、徳川家康に仕えた服部半蔵正成(まさなり)の子孫で、半蔵の名は代々受け継がれてきました。
※だから単に「服部半蔵」だけだと、どの半蔵か分かりません。
今回はそんな服部正礼について、その生涯をたどってみましょう。
幼少期から絵草紙の大ファン
松平定信に注進する服部半蔵(正礼)。NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式サイトより。
服部正礼は元文3年(1738年)、服部半蔵正覧(まさみ)と服部正武女(まさたけ娘)の子として誕生しました。
幼名は長吉、幼少期から絵草紙(えぞうし、草双紙)が大好きで、元服してからも毎年新刊を買い求めるほど熱烈なファンだったそうです。
やがて宝暦6年(1756年)に200石を知行し、安永3年(1774年)に父が亡くなったため家督と1,000石を承継しました。
松平定邦(さだくに。定信父)・定信の2代に家老として仕え、忠勤に励んだことでしょう。
妻には松平定豊女(さだとよ娘)を迎え、子に服部正路(まさみち)・岡本約斎(おかもと やくさい)を授かっています。
天明3年(1783年)に天明の大飢饉が発生した際は、定信の指揮を受けて白河藩の国内対応に当たりました。
適切な処置が功を奏して、領内では一人も餓死者が出なかったと言います。
この功績で名声を高めた定信は幕政改革に抜擢され、老中として幕閣に加わりました。
江戸っ子たちの穿ちを見抜く
朋誠堂喜三二『文武二道万石通』より。鎌倉時代が舞台だが、実は……。
定信の老中就任に伴い、服部正礼は江戸家老として「寛政の改革」を補佐します。
寛政の改革では思想統制や出版規制が厳しく行われ、服部正礼は天明8年(1788年)に入手した2冊の黄表紙が、幕政に対する風刺ではないかと進言しました。
朋誠堂喜三二『文武二道万石通(ぶんぶにどう まんごくどおし)』 恋川春町『悦贔屓蝦夷押領(よろこんぶ ひいきのえぞおし)』※参考:
【べらぼう】蔦重が松平定信に”書をもって断固抗う”決意を込め実際に出版した黄表紙3冊を紹介幼少期から絵草紙の大ファンであったことから、江戸っ子たちの穿ちや皮肉を見抜いたのでした。
これがキッカケとなり、後に朋誠堂喜三二と恋川春町は断筆を余儀なくされてしまいます。
黄表紙を愛好し、精通していたことが、かえってその文化を先細らせてしまったのでした。
定信の失脚後
老中首座となり、辣腕を振るう松平定信。NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式サイトより。
やがて寛政5年(1793年)に定信が失脚し、所領の白河へ帰った後もその政治を支えます。
文化7年(1810年)に房総半島の沿岸防備が下命された時は、現地で後詰(ごづめ。後方支援など)を担当しました。
文化9年(1812年)には定信が隠居し、嫡男の松平定永(さだなが)が家督を継いだ後もこれを補佐し続けます。
やがて文政6年(1823年)に定永が伊勢国桑名へ転封されると現地へ同行し、翌文政7年(1824年)閏8月14日に87歳で世を去りました。
墓所は顕本寺(三重県桑名市)、法名は賜錦院智信道元日記居士(しきんいん ちしんどうげん にっきこじ)。
賜錦院とはかつて松平定邦より錦嚢(錦の袋)を賜ったことが由来です。
また最後の日記居士とは、天明3年(1783年)から文政5年(1822年)まで約40年間にわたって日記『世々之姿(よよのすがた)』を書き続けたことに由来します。
『世々之姿』には幕府や諸藩との交流や紀行文、書状の写しなど多岐にわたる内容が記され、貴重な史料となりました。
自ら日記老人と称していたことから、よほど日記に心血を注いでいたのでしょうね。
終わりに今回は松平定信に仕えた服部半蔵正礼の生涯をたどってきました。
黄表紙を愛していたものの、自身の立場から結果的に黄表紙文化を先細らせてしまう事になるとは、皮肉と言うよりありません。
果たしてNHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」では、有吉弘行がどのような活躍を演じてくれるのか、楽しみに見守りましょう。
※参考文献:
家臣人名事典編纂委員会 編『三百藩家臣人名事典 2巻』新人物往来社、1988年1月 佐藤信夫 編『三重県郷土資料叢書 桑名人物事典』三重県郷土資料刊行会、1971年トップ画像:NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式サイトより。
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