江戸時代の越後屋呉服店(三越)はこうして大成功した!盗賊にも狙われた大店の実態
盗人が狙った江戸の「大店」
『鬼平犯科帳』では、多くの商家が盗賊の被害に遭うことで物語が始まることが多いですが、実際に江戸の街には豪商と呼ばれる商家が数多くありました。
特に、江戸の町人地の通りに面する「表店」には商家が軒を並べていました。
こうした商家は「大店」「中店・小店」「棒手振り」の3つに大別され、メインストリートである南北の日本橋・京橋通りと東西の本町通り界隈には大店が立ち並んでいました。
江戸の豪商として最も有名なのが、時代劇で越後屋として登場し、のちの三越の元になった越後屋呉服店でしょう。
越後屋呉服店の創業者は、三重県松坂の出身である三井高利です。彼は江戸で店を開き、両替商としても成功しました。
江戸での商いは基本的に掛け売りで、客は盆暮れなどにまとめて代金を支払うというものでした。さらに、値札は無く店と客が交渉して値段を決める相対売りが一般的でした。
これに対して、高利はもともと値引きした額の正札(値札)を付けてその場で現金払いをする現金掛け値無しのシステムを取り入れ大成功したのです。
このシステムなら、客としては交渉の手間が省けて明朗会計となり、店側も掛け金の踏み倒しの恐れもなく、すぐに現金を手に入れられるので経営の安定につなげることができたのです。
現代から見れば当たり前のようなシステムですが、実はこうしたやり方を商売として最初に取り入れたのが越後屋呉服店だったのです。
関連記事:
江戸時代、両替商が「為替(かわせ)」の仕組みを劇的に発展させた!幕府の難題を解決した三井越後屋 商売の実態このほか、日本橋南の大通りには白木屋呉服店があり、京橋の尾張町には布袋屋・亀屋・恵比須屋の三店の呉服店が並んでいました。
江戸には伊勢商人や近江商人が集中しており、前述の三井高利も伊勢出身です。
江戸にあった大店の中には、西日本の経済の中心地である大坂や京都、伊勢や近江に本店(仕入れ店)があることも珍しくありませんでした。
江戸の大店は支店にあたり、奉公人だけということもあったようです。数百人規模の大店に対して、奉公人が数十人程度の店は中店と呼ばれ、木綿や薬などを扱うことがよくありました。
上方などに本店(仕入れ店)があることからわかるように、江戸の商人は各地から送られてくる商品を引き受けて商売をしていました。
やがて、江戸の商人たちはより利益が大きい、直接買い付けによる販売にも手を伸ばすようになります。
17世紀後半になると同業者同士で問屋仲間をつくり、商品の輸送管理を共同で行いました。そのため、江戸で最も多い商店は問屋で約3,000店あったといわれています。
「超ブラック」の奉公人店のオーナー経営者は基本的に世襲で、中にはあまり経営にかかわらない者もいました。
実質的に店を取り仕切るのは番頭であり、奉公人の中から選ばれました。彼らは商品の仕入れから接客、営業など、実質的な経営を行いましたが、ただし番頭になるまでの道のりは遠かったようです。
まず10~13歳に小僧として住み込みで奉公することになりますが、小僧は無休で、実家に帰ることができたのは年間で2日間のみでした。
彼らは掃除や商品の運搬などの雑用を行うとともに、読み書きそろばんの学習も必須。店は明六ツ(日の出)から暮六ツ(日の入り)まで開いていたので、奉公人は夜明け前から夜遅くまで休む暇がありません。
現代の労基署が見たら、激怒しそうなほどの超ブラックぶりですね。
そうして小僧として10年ほど奉公すると「手代」に昇進し、さらに10年ほどで能力が認められた者は番頭となりました。
もし、商家の御曹司が放蕩息子だった場合は、番頭が養子として入り、商家を継ぐこともあったようです。
参考資料:縄田一男・菅野俊輔監修『鬼平と梅安が見た江戸の闇社会』2023年、宝島社新書画像:photoAC,Wikipedia
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

