江戸時代、幕府公認で誕生した「吉原遊廓」――江戸最大の歓楽街、その始まりと栄枯盛衰

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江戸時代、幕府公認で誕生した「吉原遊廓」――江戸最大の歓楽街、その始まりと栄枯盛衰

幕府の公認で誕生

吉原は、幕府の許可を受けた遊廓として元和3年(1617)に開業しました。

江戸は幕府が開かれたことで都市整備が行われ、多くの武士や職人が集まってきました。

その結果、爆発的に人口が増えましたが、男性が圧倒的多数を占めていました。これを商売の好機と見た遊女屋が続々と江戸に進出しました。

明治時代の吉原の遊女(Wikipediaより)

こうして遊女屋は大いに栄えましたが、楼主(遊女屋の主人)たちは「幕府の公認を得た方が、より利益が得られる」と考えます。そこで、合同で「江戸に公認の遊女町をつくりたい」と幕府に願い出ました。

幕府の側も、遊女町が1ヶ所にまとまっていた方が治安維持に都合がよかったので、これを認可します。

こうして誕生したのが吉原遊廓で、最初は現在の日本橋人形町辺りに置かれました。

元吉原から新吉原へ

吉原遊廓の立役者は、小田原北条家に仕えた武士の家に生まれた庄司甚右衛門だといわれています。

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当時の人形町は湿地帯でしたが、甚右衛門は葦を刈り取って整備しました。この逸話から「葦原」と名付けられ、のちに縁起がよい「吉」の字が付けられて「吉原」になったとされます。

江戸は都市の発展とともに人口が増え、湿地帯だった吉原周辺にも人家が建つようになりました。

しかし幕府は風紀の乱れや治安の悪化を懸念し、明暦2年(1666)に吉原の移転を命じました。

この時、幕府が移転先として提案したのが、浅草寺の裏手にあたる日本堤と、隅田川の向こうにある本所でした。どちらも郊外ですが、当時の隅田川には橋が架かっていなかったので、日本堤に移転することに決定します。

移転後の吉原は「新吉原」、移転前の吉原は「元吉原」と呼び、単に「吉原」という時は前者を指します。

新吉原花園跡の御地蔵様

吉原の栄枯盛衰

こうして吉原の移転が決まりましたが、翌年に明暦の大火が起こり、吉原は灰燼に帰しました。

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しばらくは茶屋や町屋の建物を借りて営業を行ってから、ようやく日本堤で営業を再開。移転に際しては、着飾った遊女たちをひと目見るため、多くの見物人が集まったといいます。

日本堤は浅草聖天町と三ノ輪を結ぶ土手道で、吉原はその中ほどにありました。どこから行くにしても、最後は日本堤を通る必要があったので、いつしか「吉原通いの道」として知られるようになります。

『仕掛人藤枝梅安』の「春雪仕掛針」にも、「吉原の遊里は、山谷堀に沿って西へ行けば、すぐに手がとどく」という記述があります。日中よりも人通りが激しく、吉原が江戸有数の人気スポットだったことが分かりますね。

実際、ここは吉原通いの客をあてにした茶屋や屋台が建ち並び、大いに繁盛しました。

吉原は芝居町とともに「二大悪所」と呼ばれ、日本橋の魚河岸と並んで「1日に1000両が落ちる場所」と称されます。

宝暦年間(1751~1764)が吉原の最も盛りの時期だったとされます。しかしその繁栄にも陰りが見え始めました。

それまでは吉原の独り勝ちでしたが、藩財政の悪化などで大名が堂々と遊ぶのが難しくなったのです。また、幕府非公認の岡場所や宿場に足を運ぶ人も増えてきました。

寛政文化年間あたりになると、もう最盛期ほどの賑わいではなかったと思われます。とはいえ、吉原が江戸っ子の憧れの場所だったことに変わりは無く、文化8年(1811)には214軒の遊女屋が存在していました。

参考資料:縄田一男・菅野俊輔監修『鬼平と梅安が見た江戸の闇社会』2023年、宝島社新書画像:photoAC,Wikipedia

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