「裏の吉原」江戸時代に庶民が通った“非公認な裏の色街” 岡場所の知られざる実態 (3/4ページ)
岡場所でも特に安価だったのが「切見世」で、別名「ちょんの間」と呼ばれました。時間にしてわずか10分ほどの情交ですが、一応室内の布団で交合できるので、庶民からは人気があったようです。これは現代で例えるなら……いや、やめておきましょう。
対立する吉原の路線変更一方、こうした非公認の存在を吉原が黙って見ているはずがありません。
吉原は幕府から公認を得る代わりに、それなりの冥加金を納めていました。そのため岡場所をいつまでものさばらせるわけにはいかず、幕府に対して摘発を求めます。
その結果、幕府も岡場所を取り締まりの対象とし、松平定信が行った寛政の改革では事実上壊滅の憂き目に遭っています。しかし、定信が失脚すると徐々に復活しました。
岡場所は吉原に比べると格式張っておらず、利用料金も安価でした。そのため多くの江戸っ子が流れていきましたが、このような現状に対応するため、吉原も江戸時代後期は大衆化路線にシフトチェンジしていきます。
それまでの高級遊廓時代の吉原では、高級遊女は高い教養と技芸が必要とされていました。
しかし大衆化路線にシフトすると、それらは以前ほど必要とされなくなります。一方で、芸事に秀でた女性を色から手を引かせ、色を売る遊女と芸を売る芸者の棲み分けが明確になっていきました。
宿場の「飯盛女」江戸時代の日本には、至るところに遊里が存在していました。元禄3年(1690)に来日したドイツ人医師のケンペルは、著書『江戸参府旅行日記』で「日本の公共の旅館は、公の娼家となっている」と述べています。
もちろん、すべての旅館が娼館ではないのですが、宿場の旅籠屋には飯盛女という遊女が存在していました。そのため、あながち間違っているとも言い切れないところもあったのです。